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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(4)

紙からのはじまり

 一般に実業家渋沢栄一というと「第一国立銀行の頭取になり、その立場から数々の会社設立に関わりその育成に尽力した」と伝えられるが、その草創期はそんなに甘くない。実際は苦心惨憺、もの凄いプレッシャーのなかでの汗まみれの激闘だった。


お台場越しに見る品川埠頭で荷役中の紙輸送船OJI PAPER

 津本陽が伝える最初の戦線は近代国家に必須の製紙事業である。渋沢栄一は明治五年、政府に製紙会社の設立を建言した。国産紙による紙幣印刷の品質が低くて贋造に耐えず、これまた渋沢栄一によって政府発行の紙幣はドイツへ、銀行紙幣、証券はアメリカへ発注していたからだ。
 民間でも製紙業創業の機運があって、三井組、小野組、島田組それぞれが名乗りをあげ、渋沢栄一はこれを一本化させ、渋沢栄一の妹婿、渋沢才三郎らを発起人に加えて大蔵省に会社設立を出願、明治六年2月、設立許可となった。社名を「抄紙会社」とした。
 会社設立許可と同時に英国へ製紙、印刷、製本機械を発注した。小野組と島田組が破綻し、資金は三井組一本で支えることになった。当初は情報・技術絶無、暗中模索で事業を一歩も進められなかった。渋沢栄一は明治七年1月に株主総会で社務を委任されこれに加わる。
 同年5月、発注した機械到着前に工場建設の技師として雇った英人技師ノランス・チースメンが到着、26才、任期は3年。当時日本人技師の月給が5円のところ、月給265円41銭、片道旅費630円を支給した。追って、米国から製紙技師を雇用。トーマス・ポットムリーで年給金3,000円を支給、驚くべき高給だった。12月に機械代金の支払い、18,070ドルでこれは巨額なため増資をして資本金が25万円になった。これは東京で他に類を見ない大企業となった。
 この布陣でノランスの指揮で東京王子に工場用地を決定、英国から大工を雇用し基礎の上に煉瓦という日本初の本格西洋建築による工場を建設した。担当は鹿島組、初の西欧型分業による請負だった。工事現場は連日黒山の見物人だったそうだ。これは明治八年6月に完成する。鹿島岩吉、岩蔵父子の率いる鹿島組、のちの鹿島建設である。
 当初工場は不調で、いわば中央銀行総裁の渋沢栄一が隔日出張、ポットムリーは言い訳けに終始し、渋沢栄一が激昂という場面が繰り返された。
 9月になってようやく粗末な厚紙が作れるようになったが商品価値は低く、明治八年末で工場運営費用の損失が4万円を超過し、破綻の危機となった。出資募集から3年、この計画が頓挫すれば、出資者に負担になるだけでなく、我が国の今後の工業発展に大打撃となる。今後機械工業に着手する起業家が出なくなる恐れがあり、一人渋沢栄一の名誉だけでなく、日本の今後の工業発展の命運がかかることになった。
 言語に絶するプレッシャーの中、ようやく10月に白紙が、12月に新聞用紙が漉けるようになった。
 
 困難な状況を生んだ背景には次のような事情があった。
 製紙業開始には外国に頼るしかない。抄紙会社は製紙機械輸入に横浜の外国商人と交渉し、ウォルッシュ・ホール・エンド・コンパニー商会に機械購入を依頼した。ところがこの分野、ウォルッシュ商会も素人だった。そしてこれを悪いことにこの領域未経験の機械製造会社に発注した。ここが誤りの始まりだった。ウォルッシュ商会もそれを受注した会社も不親切、不誠実だった。小国日本を軽んじた態度で、英国の機械製造会社は図面だけを提供した。
 一方日本でノランスは工場建設では手腕を発揮したが、機械組み立ては素人、この図面に頼りながらの機械組み立て、据え付け、稼働となった。
 ここで、機械図面の複写のために製図工として月給5円で雇われていた大川平三郎が奮起する。大川平三郎は、抄紙業の経験が無く機械図面だけに頼るノランスに疑問を持ち,自ら製紙技師になろうと必死の努力を重ね、次第にノランスを凌ぐようになる。そして約3年間の奮闘ののち、日本初の製紙設備の専門家になった。
 ここで明治十年、あまりに高給の外国人2人を免職にした。工場を日本人のみで操業し、それまでの18時間操業から24時間操業へ転換した。この間、役所の都合で会社名を「製紙会社」に変更、これは追って明治二六年、商法実施時に「王子製紙株式会社」になる。
 当初、製品の洋紙の販売ははかばかしくなかったが、西南戦争以降いくつかのきっかけで書籍、新聞、印紙、帳簿などの需要が増加し、原料の襤褸が不足するまでになった。
 大川平三郎は洋行を願い出て渡米。彼は日本で外人技師から英語を学んでいた。そして1年4ヶ月の滞米ですっかり技術を修得、帰国後日本の製紙業を一新した。苦労した当初の機械はあまりにも不完全なものだった。大川平三郎の手で改良したところ生産高は3倍になった。津本陽の抄紙会社の記述はこのあたり、大川平三郎の述懐で一段落する。
 大川平三郎、ただ者ではない。Webを叩いたらすぐに出てきた。あの尾高惇忠の妹、みち子の子、渋沢栄一の甥にして娘婿。後に「日本の製紙王」と言われる実業家である。明治二六年王子製紙の専務取締役、二八年に三井財閥の経営参加を契機に当時会長の渋沢栄一とともに退社、いくつかの製紙会社を経て自ら製紙会社を設立、全国に事業を広げ、追って日本の製紙業の45%を占めるに至る。昭和八年これらと王子製紙が合併し大王子製紙発足、その相談役に就任。そのほか80余の企業経営に携わり「大川財閥」となった。
 実業家渋沢栄一の人となりは総じて穏やかな紳士に見えるが、この製紙事業の草創に当たっては驚くべき闘争心が感じられる。それだけ激しいプレッシャーだったのだろう。
 今日東京、芝浦の海岸に出るとレインボーブリッジ横の品川埠頭に毎日大型RO-RO船が通ってくるのに遭遇する。積み荷は首都圏で消費される大量の紙、船腹に巨大なOJI PAPERの文字が印象的だ。徳川幕府の攘夷遺構、お台場とのコントラストにちょっとした感慨が湧く。