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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(9)(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)

教育事業への情熱

 津本陽に導かれた渋沢栄一の生涯、日々これ戦いといった激烈な実業界の活動が続くが、明治三十八年、札幌麦酒が日本麦酒および大阪麦酒と合併し大日本麦酒が誕生したところで、ちょっと一服、その人となりを示すやや挿話的な記述になる。


青淵文庫(東京・王子飛鳥山
 
 このころ、渋沢栄一の実相は労をいとわぬ財界の相談役になっていたようだ。その代表的な著書「論語と算盤」の紹介があり、調子の良いときも「小事」を軽んじることのない考え方が述べられている。
 この本は読んでみた。守屋淳訳「現代語訳 論語と算盤」、原典は大正五年(1916年)出版。渋沢栄一の口述集だが一話一話がまとまっている。考え方のほか、出来事のいくつかも詳述されている。読んでいて、現代に渋沢栄一が生きていて、そのあたりで講演しているのではないかと感じさせるようなところが沢山ある。維新から半世紀、大正初期と今の時代状況が重なるのか、それとも渋沢栄一の普遍性なのか。巻末に小伝があって、その驚愕の生涯を概観できる。模範生のような渋沢栄一だが女性関係は褒められなかった。沢山の女性と関係があり、落とし子30人ともいわれているそうだ。
 本書は端的に言ってしまえば渋沢栄一の行動原理が記述され、論語の渋沢流解釈にルーツをもつ、いわば大いなる正論集である。それは当時進行していた激烈な資本主義社会の行動原理へのアンチテーゼであったと同時に、全く現代社会にも通じる正論となっている。挿話の中には、家族に関する話題などと合わせて、渋沢栄一を狙った刺客騒動もある。この時代やはり仕事は物理的に命がけだった。

 そして再び話題は社会活動へ、今度は商業教育と女子高等教育である。
 まずは東京商科大学。これは森有礼(米国在勤領事)が明治七年頃米国で実業教育を見聞し、帰国後大久保一翁東京府知事)に協力依頼し、実現に漕ぎ着けたもの。「社会活動へ」の項で触れたが、その資金について渋沢栄一(東京会議所共有金取締)に相談が持ち込まれ、共有金8,000円を拠出、森有礼は自費1万円を寄付し、商法講習所が開設された。
 教師として米国人ホイットニーを雇用、商業簿記を教授した。もちろん授業は英語。
 森有礼が清国大使に赴任すると経営は共有金だけに委ねられた。明治十一年東京府の経営になったが費用はひきつづき商法会議所負担だった。明治十四年、商法講習所廃止の方針が出され、経営を三菱財閥に委ねる案が浮上した。ここで渋沢栄一は猛然と反対、一旦運営を農商務省に委ね、募金活動を展開した。反対は『三菱財閥の運営では、利に聡い人間を輩出するかも知れないが、事業家としての節義をないがしろにする教育を行うと思った』ということである。「実業バトル、海運から」の項で触れたが、岩崎弥太郎配下で隆盛を極める三菱財閥渋沢栄一は、その実業への基本的な考え方において激しく戦っていた。
 困難な経営を続ける商法講習所だったが、明治十八年頃、森有礼が文部大臣に就任し、官立の高等商業学校にすることが出来た。これがのちに東京商科大学そして今日の一橋大学へと発展した。
 次はいよいよ女子教育。明治十九年、渋沢栄一伊藤博文(総理大臣)のすすめで、女子教育奨励会評議員になった。これはいわば資金調達係、女子教育振興のための資金を商工業者に寄付させ、6万9千円余を集め、渋沢栄一も3千円を寄付した。そして女子教育奨励会を設立、これを母体に明治二十一年、東京女学館を開校した。校舎は宮内庁所管の麹町区永田町である。
 この女学校の背景は井上馨が推進役となって進めた欧化政策にある。つまり、端的に言って鹿鳴館時代を支える婦人を養成することだった。「グラント将軍来日」のところでちょっと触れたが、当初日本には鹿鳴館の宴に象徴されるような外交活動に対応出来る婦女子は皆無だった。女学館では英国婦人を多数雇用し、キングズ・イングリッシュをはじめ必要な教育を精力的に行い、多くの国際級婦人を輩出していった。
 津本陽はここで女子教育奨励会会長、副会長の名を列挙している。会長は北白川宮殿下、副会長は熾仁親王殿下御息所、貞愛親王殿下御息所、三条公爵夫人、黒田伯爵夫人、伊藤伯爵夫人、西郷伯爵夫人、岩崎(弥之助)夫人、渋沢(栄一)夫人、となっている。熾仁親王は有栖川家、貞愛親王伏見宮家、まさに三島由起夫の戯曲を彷彿とさせる世界だ。
 個人的な経験で恐縮だが、以前、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台となっている萩を訪れたときのこと、見物の定番で後の明治の元勲・高官たちの旧邸を回るのだが、それぞれの邸に男だけでなくその夫人の肖像写真が掛かっていて、その多くが美しいキリッとした洋装なのが印象に残っている。松下村塾のイメージは帯刀した無骨なサムライ達の世界だが、明治の高官となると一挙に洋装の美麗夫人を伴った洋館での宴のイメージとなる。東京女学館はさすがにこれらの婦人たちの教育には間に合わなかっただろうが、その女子を一手に引き受けたということだろう。想像を絶する明治のダイナミズムだ。
 渋沢栄一は当初会計監督、その経営に苦心を重ね大正十三年に館長、昭和五年に理事長兼館長、経営難は何十年もつづいたが、懸命にこれを維持した。
 そしていよいよ日本女子大学の設立。明治二十九年、渋沢栄一大隈重信成瀬仁蔵の紹介を受けたところから話がはじまる。成瀬仁蔵に女子教育の場として大学設立への支援を依頼された渋沢栄一は当時経営難の女学館との統合を薦めたが、教育方針が根本的に異なることが判明、明治三十四年に小石川に日本女子大学開校の運びとなる。渋沢栄一は創立委員、評議員となるが、ひたすら資金調達に貢献、一方教育については成瀬仁蔵を信頼、一任し全く関与しようとしなかった。
 それほどまでに渋沢栄一の信頼を得た成瀬仁蔵とはいかなる人物だったのだろう。飛鳥山の渋沢史料館に鮮明な肖像写真が展示されている。この写真は色々な資料でも見かけるが、その端正な顔立ちにはハンサムを通り越して、他の同時代人とは明らかに違うと感じさせる何かがある。今風にいえば「持っている」。成瀬仁蔵の墓は永井荷風など著名人の多く眠る雑司ヶ谷にあり、後に幼稚園から大学まで備えるようになった日本女子大学はその墓参を学校行事とした。
 津本陽は次のように結んでいる。
 『(渋沢栄一は)九十歳を過ぎた身で自ら校長となり、生をおえるまで女子教育の一線を退かなかった。』