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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(1)

渋沢ビッグバン

 渋沢栄一の生涯、Wikiの表現では「日本の武士(幕臣)、官僚、実業家」とあるが、津本陽の「小説 渋沢栄一」では下巻に突入してもいましばらく官僚生活が残る。その先どんな展開が待っているのだろう。それは決して「官僚だった渋沢栄一はその後民間に転出し実業家として大成しました」、などという生やさしいものではない。91歳で没するまで、あくなき闘志で鮮烈な戦いが続いた。


赤城山遠望 深谷市下手計(しもてばか)の渋沢栄一記念館から
 
 東京、飛鳥山
 いわゆる渋沢邸のあったゆかりの地だ。
 ここのいくつかの記念施設のひとつに「渋沢史料館」がある。見学した機会に「常設展示図録」を求めた。展示されている資料を丁寧に説明しているのだが、それが自然に渋沢栄一の業績を分類して示す形になっている。「官僚」を卒業した後、ざっと並べて、銀行家、企業家、経済団体の組織化、企業道徳論の展開、日米実業団外交、日米文化交流、アジア太平洋会議、国際連盟精神の普及、国際交流、社会福祉事業、医療機関支援、教育事業、女性教育、東京の街作り、田園都市計画、労使協調、そしてグラント将軍歓迎会設営、などなどただただ驚くしかない。設立・育成にかかわった会社一覧があるが、そのほとんどが現在も日本経済の根幹を支える存在になっている。
 こうして渋沢栄一を追っていて驚異的な資料に出会った。「渋沢史料館」はじめ飛鳥山の施設を運営しているのは、公益財団法人「渋沢栄一記念財団」である。この財団がとても充実したWebサイトを運営している。もとは1937年に「日本実業史博物館」構想というのがあったのだが、これが実現しなかったので今世紀になってそれをWeb上に現代の技術を駆使して実現した。たとえば社史1,035冊の収集などを背景とした精緻なデータベースが構成され現行化されている。
 その中に「渋沢栄一関連会社社名変遷図」という122枚の図がある。企業の家系図のようなものだ。その全体を概観してあらためてこれが渋沢関連企業か、とため息が出る。つまり現在の日本経済は根源のところで渋沢栄一の手で産み出され、育てられ、その後渋沢栄一の手を離れてからさらに大きく育ったもの、という感じになる。マクロにここ百数十年を鳥瞰すると、あたかも「渋沢ビッグバン」から今日の「日本経済の大宇宙」が産みだされたように見える。
 日本の産業界は、5年ともたない栄枯盛衰企業の大規模な集積体、いわばスタートアップ企業の貝塚のようなシリコンバレーとは全く様相を異にした、継続性をもった積み上げ型企業の系譜で構成されている。このビッグバンをじっと見つめると、ここ140年の産業界のマクロな推移が読みとれる。それは創業の苦難の時代、沢山の企業が創設され熱いバトルが演じられた時代、やがていくつかの有力企業に絞られ、国内の比較的閉じた領域での過当競争と併存の時代。そして現代、それらが、ほんとに少数の強力な企業に束ねられ、真のグローバル企業、国際ビッグ・ビジネスプレーヤへ飛翔しつつある時代、である。
 それではこの「ビッグバン」、いわば「宇宙の創成」の話しに戻ろう。渋沢栄一は藍の商人の時代から、商人の武士への卑屈な態度を苦々しく思っていた。この感情は渡欧して彼の地で商人と軍人の対等の付き合いを目の当たりにし、一層強くなった。
 明治四年、渋沢栄一は大蔵省においてその職位を少しずつ上げながら井上馨とともに近代国家建設へ向けて繁忙を極めていた。その中で、商人の官僚への卑屈な態度にあきれ、「今日の商人ではどうにもならない、自分がやらねば」、という気持ちを強くする。民間転出への考えを示すが慰留され、なかなか機会を掴めなかった。折しも政府は人材を二分して岩倉使節団の米欧への派遣、その間に困難を極める財政の中で政府は紛糾。ようやく明治六年5月に井上馨とともに下野となった。井上馨は、財務知識無く財政運営能力に欠ける三条実美西郷隆盛大久保利通ら政府重鎮群の圧力に怒りの辞任だが、渋沢栄一にとっては格好の口実だった。
 この間、渋沢栄一は『商』の根本原理を記した「立会略則」を官版として発行、全国に周知している。『「商い、商人」、は天より与えられた美名で、単に個人が生計をいとなむための方便を称するのではない』として、「士農工商」の最下位として不当な扱いをうけてきた商人の奮起と自覚を促している。そして、合本組織(株式会社組織)と殖産興業の発展を必要とする所以(ゆえん)を示した。また「会社弁」として欧米の経済書の中の会社篇(ウェイランド及びミル、ニューマンの経済書から)を福地源一郎に抽出翻訳させた。当時こうした知識は民間に皆無、図書も無く、全国の商工業者が争って読むことになった。

 箱館戦争の収束、上野彰義隊から各地を転戦、箱館まで戦って降伏した従兄渋沢喜作の赦免と大蔵省への出仕、おなじく京都で駆け回った幕閣、永井尚志(なおゆき)の降伏と明治政府への出仕、父親、渋沢晩香(63歳)を故郷で看取る、などの話題がある。
 また、外債整理を行った。これは諸藩の負債の整理にも相当する。そして太陽暦の採用。
 次いで東京横浜鉄道開行式が行われた。これは現代人の想像を絶する帝都挙げての大行事だった。津本陽はその日明治天皇が皇居を出発するところから始まる一日の壮大なドラマを感動的に描き出し、欧州で初めて鉄道を体験した渋沢栄一の感慨を伝えている。近年、あの3.11の直後、皆が「この日本はいったいどうなるんだろう」という不安の中、こんな時だからと多くの人が涙した九州新幹線全線開業祝い、九州縦断ウェーブに匹敵する、あるいはそれを超える官民一体のビッグイベントだったようだ。
 さらに台湾問題の発生。台湾征伐論が盛り上がるが渋沢栄一は財政論でこれを断固阻止、無期延期に持ち込む。そして、旧幕府時代からの土地永代売買の禁の解除、陸軍省海軍省の設置、近衛兵の設置。文部省による学制の頒布。国民皆学を期する近代教育制度令、徴兵の詔書発布、と進む。
 そして遂に国立銀行(ナショナル・バンク)条例公布に至る。これはアメリカの制度にならい、紙幣発行の特権を持つ銀行を開設するものだ。このとき大蔵省には財政経済を理解する者が一人もいない状況だった。渋沢栄一はここで最後のひと働きをして在野の人となった。