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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(2)

兜町から

 明治六年5月、渋沢栄一はいわゆる「在野の人」になった。大蔵省最後のひと仕事は銀行業務を監督する人材皆無の大蔵省に、横浜東洋銀行書記のイギリス人、アレクサンダー・アーレン・シャンドを紙幣頭付属書記官として3年契約で雇用することだった。渋沢栄一を含めて皆このシャンドから簿記を習うことになった。


東京、飛鳥山の緑陰でたたずむ渋沢栄一像 (銘板に第一銀行頭取男爵渋沢栄一君……)
 
 翌月渋沢栄一は自らの手で生み出し命名した第一国立銀行の創立総会に出席した。ところは日本橋兜町一番地。この銀行設立計画は江戸時代からの為替・両替商、大番頭の三野村利左衛門率いる三井組と小野善右衛門率いる小野組の合作である。二人は大蔵省を辞める渋沢栄一に対し銀行経営への尽力を懇願した。渋沢栄一井上馨大隈重信に相談すると強く支持された。三井組と小野組が対等に覇を競って収拾がつかないのと、「当時の商人は文字の素養を持つ者は稀だった」ことが背景、とある。「文字の素養」とは何なんだろう。ようするに学問の素地がないということか。三条実美のような公家、西郷隆盛のような武人に全く財務の知識が無く、さらに商人に文字の素養が無ければ、誰が日本経済の舵取りをするのか。人材払底の日本で、渋沢栄一はそれこそ太陽だったに違いない。
 小野組、浅学にしてなじみがない。鳥羽伏見の戦いで官軍を支援し大金を献納、御用金調達額10万両、新政府と命運をともにする覚悟で、追って新政府の財政難支援で300万両を調達した。小野組の懸命の斡旋で、三井組、島田組らからもあわせて新政府の活動に十分な資金が調達された。明治維新というと戊辰戦争のような熱い戦いに目が向くが、実はそれを支える財政上の戦いがあったわけだ。津本陽は触れてないが、こうした戦いで表向き外資は登場していない。いわば民族資本で新政権が生まれたというのは特筆して良いのではないだろうか。
 このような経緯で、小野組、三井組、島田組は新政府為替方の地位を得て、隆盛を誇ることになる。一方、明治四年、廃藩置県断行、全国二百数十の大名が消滅、旧幕以来の両替商、用達商人は貸付先消滅で貸金回収不能、破産も多く、江戸の札差も、旗本、御家人への貸付金は回収不能、多くは悲惨な末路となった。
 こうした中、三井組と小野組はあい反目し銀行を独占しようと共同経営に応じない姿勢だった。渋沢栄一は大蔵省時代、国立銀行条例起案作業中、井上馨宅に両家を呼び出し、官金出納の特権付与にあたって共同経営への同意を条件とし、両家を同意させた経緯がある。こうしたことから新銀行で渋沢栄一は請われて、三井組と小野組から出た二人の頭取の上位に立ち、全役員を指揮する立場の総監役に就任した。このとき34歳。
 渋沢栄一はお飾り的にトップに座るのではなく、実務に奔走した。ルール作りに貢献、たとえば、創立総会で、自ら作った規則増補を株主全員に2時間かけて詳しく説明しその場で同意を得た。
第一国立銀行の実態は民間資本による株式会社で、多くの役職に、激しく勢力争いを続ける小野組、三井組の双方から人を出す、生まれながらに合併銀行の様相を呈していた。

 津本陽はこのときの渋沢栄一を次のように表現している。
 『栄一はひたすらおのれの利を漁る(むさぼる)実業家とはまったく違う。維新以降、井上馨伊藤博文らとともに、大蔵省を代表する人物である。旧幕府時代の財政組織を西欧諸国のそれに切りかえるため、さまざまな困難に立ちむかい、あたらしい法令、機関を数え切れないほど出現させてきた、経済の天才であった。』
 まさにこの時期、日本経済にとって誰も代われない至宝の人材であった。
 渋沢栄一は株主募集に奔走した。最初の営業品目は当座預金、定期預金、金銀貸付、公債及び地金金の買入れ、為替などだった。当初は銀行の存続を危ぶむ者が多かったが、総監となった渋沢栄一は業務の監視を怠らず、懸命に営業拡張活動に努めた。
 明治七年、第1回株主総会にこぎ着ける。このとき「五大友厚」が登場する。設立時の株式募集が目標未達で資本金総額が半端な数字でみっともないことを指摘し、自分が出してもよいのできちんとした額にせよという指摘。皆が賛同し新たに割り当てそのとおりになった。「五大友厚」、現在北浜の大阪証券取引所正面玄関前で颯爽と上着を翻す銅像の人物、あの「薩摩スチューデント」のリーダーの一人だ。
 幕府の治下、髷を結い帯刀の時代、将軍徳川慶喜に仕え、徳川昭武随行して欧州に派遣された渋沢栄一、そして薩摩藩、藩命で偽名渡航した秘密留学生、五大友厚、ときに38歳、こうした人材が遂に日本に開設された西欧型国立銀行の第1回株主総会で相まみえる、なんとも涙の出るような場面ではないか。まさに挙国一致、みんな懸命だった。

 第一国立銀行はその後波乱の経緯を辿る。銀行発足時、小野組は隆盛を極めるとともにその経営は乱脈の限りで、これには政府も悩むところとなった。渋沢栄一と同時に野に下り産業界で活動するようになった井上馨はこうした商人の乱脈な活動に仰天し、銀行の経営を心配して渋沢栄一を支援した。
 この乱脈に終止符を打つべく大蔵省は明治七年2月と12月に各組にその扱い金に見合う供託金を求め、小野組および島田組は破綻、三井組のみが生き残ることになった。この破綻処理では驚くべきことが実行されている。小野組の第一国立銀行への負債は莫大だったが、破たん後可能な限りの抵当を提出し、銀行資産の毀損を僅少にするよう努めた。この時代、商人もまた商人なりにサムライだった。小野組で為替以外の事業を仕切っていた古河市兵衛は、自分の財産すべてを小野組に預けていて、これを放棄し全部抵当として提出したので、文字通り裸一貫で小野組を去った。こうした古河市兵衛の振る舞いは渋沢栄一の心に残った。古河市兵衛、このあとの日本の歴史に登場する。「古河財閥」である。
 第一国立銀行は三井組の別店の様相を呈するようになり、また三野村利左衛門からも銀行の支配権を独占するような提案があった。渋沢栄一はこれをきっぱりと拒絶、政府へ建白書を出して大改革を断行、政府は渋沢栄一を頭取に推し、三井組の影響を完全に排除した体制に移行した。

(神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ)