ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが30年以上も前に発表した『ソラリスの陽のもとに』(ハヤカワSF文庫)という作品がある.海におおわれた惑星ソラリス。その有機質の広大な海自体が,高度な思考能力を持つ知的生命体だと判明した.人類は海の謎を解き明かすべく,長年調査を続け「ソラリス学」なる学問分野が形成されたが,成果はほとんど上がっていなかった.そこに新しく研究員として派遣された若い心理学者が遭遇する奇妙な物語.
宇宙に存在する知的生命体との交流を,「友好か,さもなければ敵対か」という二者択一で描くのが通常のSF小説のスタイルだが,それはあくまで人間の思考の枠組みでしかない.レムは「相互に理解しえない」という第3のパターンをこの作品で提示したのだった.この小説はこれまで2回映画化されているが,いずれも原作の思想的深みは表現しきれていないように思う.アンドレイ・タルコフスキー監督の最初の映画では,赤坂見附付近を走る首都高速の交差点が未来都市のイメージとして使われていたのは御愛嬌.
地球の表面の大半を占める海が,それを取り巻く陸地に住む人びとにとって,海の向こう側にあるさまざまな異文化とのコミュニケーション・メディアの役割を果たしてきたという事実に気づかされたのは,『日本の歴史を読み直す』ほか,網野善彦さんが中・近世について書かれた何冊かの本に接してからだった.
明治維新政府が全国の戸籍を作成したとき,能登半島にある輪島ほかの街の住民は自分の田畑を持っていないという理由で「水呑み」と分離された.しかし,かれらは決して貧乏な水呑百姓などではなく,かなり豊かな生活を送っていいた,幕府表向きの鎖国政策を無視し,日本海を利用した海外貿易で稼いでいたのである.貿易港として作られた街の構造(アーバン・プランニング)がそのことを証明しているのだという.
先日,上海・寧波の旅行から帰ってきて、久しぶりに近所の図書館にでかけたら,新着書籍の棚に,上田信『シナ海域・蜃気楼王国の興亡』(講談社)という本を見つけた.寧波行きの前に目を通した『東アジア海域に漕ぎだす』の第1巻と同じく,中世および近代のアジア史を海からの視点で読みなおそうという試みの系列に属する本である.
この海域を自由に往来していた日本人・中国人・朝鮮人・琉球人・ポルトガル人・ヴェトナム人などが混じり合った「海民集団」は、14〜16世紀にかけて,それぞれの時代の陸上の政治や外交に介入し,密貿易の調停役をつとめ,時には盗賊として沿岸を荒らしまわった.
そのイメージを誇張して,「半裸に裸足,大刀を振るって暴れまわる「荒くれ者の日本人」という倭寇像が作られたのだが、それはあくまでも誤解でしかない.いわゆる倭寇のなかには日本人はほんのわずかしかいなかったというのが真実なのである.
堺から瀬戸内海を経て、長崎・平戸、朝鮮半島と中国沿岸部、さらに台湾からフィリピン、ジャカルタにまでいたる海,すなわち東シナ海と南シナ海を中心とする中世の「海」に,まるで蜃気楼のような幻の王国が存在したと仮定して,その歴史を彩る何人かの英雄の姿を,『史記・列伝』のスタイルをまねて描こうというのが,著者・上田信さんの構想で、なかなか面白いと感じた.
その王国の300年史を飾る人びとは: 朝貢システムの盲点をついて明朝との交渉に成功した足利義満,皇帝の名を受けて南海遠征を率いた宦官の鄭和,後期倭寇の頭目と呼ばれ,長崎を根拠地として清朝と戦った王直,キリシタン大名として,朝鮮および明朝との外交交渉に携わった小西行長,日本生まれの中国人として清朝やオランダと戦った国姓爺こと鄭成功といった顔ぶれである.
この本を読むまで,わたしは足利義満をただの暗愚な将軍だと評価していたのだが、それは間違いだったようだ.日本の歴史上今日にいたるまで対中国外交戦で勝利を収めたのは,どうやらかれひとりだったらしい.小西行長についても,石田三成配下の能吏にすぎなかったというわたしの評価が,やはり誤りだったと気づかされた.鄭和が宦官でしかもイスラム教徒だったとは知らなかった.日中両国を股にかけて活躍した王直の数奇な生涯については,そのうちにだれかが長編歴史活劇映画を撮ってくれることを期待したい.
これらの英雄たちの物語を,ソフトウェア分野のアナロジーと考えて,インターネットの海を囲むマイクロソフト,グーグル,オラクル,その他の「陸上の諸帝国」と,自由な「海民」としてのプログラマたちとのあいだの虚々実々の交渉プロセスを眺めて見たらどんな分析ができるだろうかと,ふと考えてみたのだが,それにはまだもう少し時間の経過を待つ必要があるように思われる.