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絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(6)

欧州、乾いた砂が水を吸うように
 徳川昭武一行がパリに着いたのが慶応三年3月、帰国のため最後にマルセーユを出港したのが翌四年9月、滞在は正味1年半だった。徳川昭武は日本国の大使だが、渋沢栄一はいかなる身分だったのか。庶務を扱う俗事方あるいは御勘定格で、一行の旅費を管理する会計係兼記録係のようなものであった。紱川昭武に侍する7人の小姓達に手当を与え、一行の日用品を購入し、日本への公文書をすべて筆記したとのことである。


旧渋沢邸、「中の家(なかんち)」、埼玉県深谷市、血洗島

 俗事掛なので、たとえば皇帝との謁見式のような儀礼には参加できないことがあった。現代の留学や海外赴任でも1年半という期間は何かを学ぶには短い。しかし留学生でもない渋沢栄一はこの期間に、もちろん実務をこなしながら、その後の近代国家日本の立ち上げに必要なほとんどすべての基本事項を吸収して戻った。只々驚くほかない。
 欧州滞在中には次から次へと様々なイベント、事件が続く。渋沢栄一がいったいどれだけのことを学び吸収していったのか、その項目を概観するだけで、実際にあった機会とそこでの貪欲さに圧倒される。
 渋沢栄一は往路の船中からすでに洋食に慣れ、これを楽しみ記録にとったそうだ。供のメンバーの多くが見聞する西欧文化を排斥したが渋沢栄一は貪欲だった。津本陽はその躍動する姿を次々と展開されるイベントだけでなく渋沢栄一の心理を含めて一種の臨場感をもって描いている。
まず滞在の本拠地パリ。たとえば、想像を絶する巨大な様相をあらわした西欧文明の姿に気おされる。道路の辻の常夜灯、路傍の様々なギヤマンに包まれた瓦斯燈の真昼のような光芒、あふれんばかりの通行人を見て「どうすればこのような文物が富み栄え、大廈高楼が櫛の歯のようにつらなる都ができるのであろうか」、と思う。
 パリ全市に水道と瓦斯道が通じている。室内で栓をひねれば、洗面所、風呂場、厠に湯水がたぎり落ちる。市内の噴水が高くのぼり、はき出す水が路面の埃をしずめる。人家は7、8階にも達し、おおかた石造、室内壮麗、王家の住居のようだ。フランス女性の容姿のなんと優美なこと、平凡な町屋の婦女さえたとえようのない美しさ、ということになる。
こうした状況に続いて、軽気毬見学、観劇を経験し、劇場の威容に感心、歌謡、舞踊、舞踏、舞踏会、男女の風習に驚く。凱旋門シャンゼリゼ博物館、フォンテンブロー見物、植物園・動物園訪問、カンガルー、海獣、さらに人間のミイラを見る。そして、パリ市街の新開発地造築現場、上下水道や瓦斯管敷設現場見学、政府武器貯蔵所、古寺、警察署、裁判所、公園見学。市中の大病院を詳しく視察し、文明の精華というべき施設であると驚嘆する。
当初のホテル住まいから、貸家を探して借用、自らフランス語の勉強機会を作る。こうした中でビッグ・イベントが続く。博覧会のためパリ駅にロシア皇帝が到着、フランス皇帝が馬車、騎兵、歩兵で途中まで迎える。その美装な行列がまるで武者人形のようで、日露における歓迎の待遇の相違を目の当たりにし国力の相違に胸を痛めた、とある。
 皆でフォンテンブローでの競馬観覧があった。ここでロシア皇帝の馬券が当たって賞金を貧民に寄付した。皇帝も賭博をするんだと驚く。6万人の観兵式を参観、その規模と歩兵、軍楽隊、砲兵隊、騎兵隊など美麗な軍装に圧倒されるが、ここで渋沢栄一は「いまに追いつく」という闘志をかき立てた、というのだから流石である。
 そんなとき、ロシア皇帝馬車襲撃事件というのが起きる。祖国でロシアの圧政にあえぐポーランド青年の犯行だった。かつての尊攘の志士は命を懸けたこの行為に深く感動したそうだ。そしてヴェルサイユ宮殿に遊ぶというのも経験する。800人の参会する宮中舞踏会に参加、このために遂に断髪、洋式礼服に身を包むことになった。さらにプロシア公使館での舞踏会などというのもある。
このあたりで紱川昭武一行が莫大な滞在経費に耐えかねて、ホテルから仮館に引っ越すことになる。渋沢栄一は一行の庶務担当として家賃の値切り交渉、謝金などこれらの生活面の一切を仕切る。次いで、紱川昭武の教育係ヴィレット陸軍大佐との一悶着がある。そのあまりの態度傲慢から諍いとなり渋沢栄一と決闘寸前となるが、さすがに先方が思いととどまった。渋沢栄一にとっても日本の近代化にとっても危機一髪である。紱川昭武一行は仮館でこの大佐と同居生活となる。
もう一人教育係が登場する。銀行家フロリ・へラルトで、経済を担当する。渋沢栄一はここで、日本の将来を決することになる2つのことを得る。一つは軍人ヴィレットと銀行家ヘラルトの対等な交際を目撃し感心したことである。これは武士と町人の付き合いに相当し、当時の日本では考えられないことだった。
 フランスには武士、町人、諸職人の間に高下の区別が無い。渋沢栄一は日本でもこのようでなければならない、と強く思ったようである。もう一つは渋沢栄一がヘラルトから資本主義の仕組みを詳細に教えられたことである。津本陽はこれを「乾いた砂が水を吸うように、貪欲に覚え込んだ」と表現している。それは、銀行、証券取引所、株式、公債の仕組みなどで、ヘラルトは銀行家としての豊富な体験、厖大な知識を惜しみなく与え、全く知識の無い渋沢栄一が十分に納得するまで懇切丁寧に教えた、ということである。そして銀行、証券取引所を実地見学している。

 今にして思えば、この一行に渋沢栄一がいたことが日本の幸せであった。当時日本の武家、公家は財務にからきし弱かった。のちに出てくるがあの西郷隆盛三条実美も経済はまったく駄目だったようである。またこのような国賓としての日本政府代表団に当時の日本の商人が加わっていても、活動はできなかっただろう。農民にして商人出身で勤攘の志士を経て幕閣の末席に連なったサムライ渋沢栄一であってこそ、フランス銀行家の知識と知恵の受け皿になり得た。こうした歴史の推移を知るとまったくため息がでるが、はなしはまだまだ続く。