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絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(8)

原点の弾込め

 徳川昭武一行はイギリスからパリに戻り、費用の問題もあって、ロシア、プロシアポルトガル訪問予定を中止し、語学中心の勉学に精進することとした。徳川昭武は語学のほか、画学、馬術、運動術、射撃術などの勉学に励み、付き添いの者にもそれぞれに学習機会があった。しかしながら渋沢栄一は雑用に追われ、わずかにフランス語の修得機会があった程度で、もちろん余暇も望めなかった。


埼玉県深谷市、血洗島方面近影(2014年11月)

 一連の経験は渋沢栄一に何をもたらしたのだろう。
 まず渋沢栄一は、国運の発達を図るには鉄道に拠らねばならぬという強い信念を持つに至った。見聞したヨーロッパ各都市の交通事情の進歩には目覚ましいものがあった。日本はまだ大名行列の時代、馬車、荷車、鉄道馬車すらなかった。そしてもう一つ、各国の産業事業規模が日本とかけ離れて巨大なことを見せつけられ、はじめは圧倒されるばかりだった。どうしてこのような大資本が運用できるのか不思議に思われたが、合本(株式)組織による資金調達を教えられ、いつの日かこの仕組みを日本に実現したいと考えるようになった。
 渋沢栄一には徳川昭武のような勉学の機会はなかったが、昭武一行の庶務を扱ううちに、実務の中でヨーロッパ諸国の経済流通の構造を自然に理解できるようになった。紙幣の信用度、バンク、公債証書、合本法(株式制度)、そして合本制度で組織する鉄道会社や社会に流通する借用証文など、いろいろな経済のしくみを体で理解していった。
 そして、かつての尊攘の志士らしく精神文明では東洋がまさっていると考えたが、物質文明では西洋がはるかに優れているという現実を認め、さらに商工業者と官吏、軍人の地位が日本とまったく異なり、商人と軍人が対等に交際している様から、官民の平等主義が国の発展に必要であるという信念を一層強くした。渋沢栄一は自身の進路として、政治権力や軍事ではなく、金融、運輸、商工業への従事を強く思うようになった。

 こうした中、慶応三年末、遂に大政奉還。一行はさらなる欧州滞在を希望したが徳川昭武水戸藩を相続し、帰国が必要になった。渋沢栄一はひたすら後始末、帰国作業に励み、翌年9月、最後にボルドーを訪問し、ビアリッツで皇帝、皇后に暇乞いをして、マルセイユから帰路についた。慶応四年、すなわち明治元年11月、横浜に帰着、欧州滞在は1年7ヶ月であった。それはその後の日本にとって実に決定的な1年7ヶ月であった。
 この渋沢栄一にとっての一年半は、どんな日本人にもなし得ない経験であった。大学での座学はもちろんのこと、何かの職業の修行のようなものでも絶対に得られない、そして、別の時期、また別の人物によっても再現することは出来ない、一度きりのかけがえのない学習プロセスであった。それは渋沢栄一個人のプロセスではあっても、なんだか渋沢栄一が日本の未来のすべてを託された、大げさに言えば民族国家代表の、一回きりの、言うなれば天から与えられた機会に見えてくる。天佑ということばが思い起こされる。
 鎖国政策のもと300年続いた徳川幕府のそのほんとうに物理的に最後の最後の瞬間に、パリで万国大博覧会があり、ここに将軍の実弟がフランス国賓として一年余派遣され、その代表団の中に渋沢栄一という希有の才能が、それも末席の庶務担当官僚として含まれていた。一つでも歯車が違えば今日の日本はなかったかもしれない。そう思うと、なんだかすべての推移が神々しく、神がかり的に見えてくる。その後の推移を概観してみよう。
徳川昭武一行が帰着した時期は明治政府が発足したばかり、まだ箱館戦争も勃発していないときだった。渋沢栄一は帰郷できたが、拠点を東京とし旅の残務整理、横浜を往復することも多かった。
 その胸中は、駿河で前将軍家にお仕えし一生を送りたい、但し無禄移住で静岡藩の庇護をあてにしない、というものだった。己でなんらかの生計の道をたてたい、そのなんらかの生計とは、ヨーロッパで広く行われているバンクをやって元手を集め、事業を始める、そして断じて新政府には仕えぬ、という強い意思であった。このあたり、あれだけ落差のある西欧文化の洗礼を浴びた中で、まったく揺るがないサムライの心には感動すら覚える。
 パリ滞在中から胸にあった、バンクで国民の資金を集め、債権というものを官民で発行し、産業を大発展させてゆきたいという希望はその後の推移のなかで見事に結実する。
 徳川昭武渋沢栄一に水戸に来るよう強く誘ったが、渋沢栄一徳川慶喜への帰朝報告の優先を譲らなかった。徳川慶喜駿河で70万石、宝台院という寺院で謹慎中だった。渋沢栄一は12月に前将軍拝謁がかない、欧州の一切を報告、徳川慶喜は満足し、「重畳である」との言葉を得て渋沢栄一は感慨無量だったとのことである。
 この場面、津本陽の描写は淡々と進むが、実際はどうだったのだろう。時代劇として、大河ドラマとしても、あまりにも多くのものが積み重なっていて、それは、それは重い場面だったに違いない。現代の日本の俳優でこの場面の二人を演じきれる人物がはたしているだろうか、などと考えてしまう。著名な勝海舟西郷隆盛江戸開城の会談などより遙かに重い二人だったのではないだろうか。

 渋沢栄一への徳川昭武からの誘いは徳川慶喜にも届いていたが、徳川慶喜渋沢栄一の将来を見据え、強制的に自藩で抱える。渋沢栄一は藩の禄を食む事を拒否するが、一騒動のあと結局静岡藩内に株式会社の原型を作ることになる。これが近代日本資本主義の原点である。
 静岡藩内に商法会所という新組織を設立。領内の重立った商人12人が協力、バンクと商業を兼営、渋沢栄一は頭取という役についた。資金は藩の正金、太政官札に士民の出資金を加えた官民の出資。太政官札は明治政府が各藩に貸与した初めての政府紙幣である。追って組織名称を中央政府へのカムフラージュのため「常平倉」に変更した。
 このときの渋沢栄一はまだまだ静岡ローカル、このあと大隈重信というもう一人の傑出したプレーヤーが登場して、ようやく全国区の渋沢栄一が誕生することになる。激動の世に私心なく国家視点で躍動する群像の織りなす歴史には只々ため息である。