欧州、地政学のなかで
渋沢栄一に厖大な知識を惜しみなく与えたフランスの銀行家へラルトは、結果的に日本の資本主義誕生の大恩人となった。その動機は親切心からだけだったのか。否、当時フランス政府はヘラルトを中心に、日仏共同の大規模商社ソシエテ・ジェネラルを創設しパリの本店から、生糸を中心に日本との貿易の独占を企てた。またへラルトは慶応二年5月、幕府に鉄道、電信の敷設をすすめている。これは軍事上の配慮で、そのための資金調達をフランス側で行う意向を示し、日本の貿易をフランスの支配下に置く意図だった。徳川昭武一行は西欧列強がしのぎを削る国際地政学の渦中にいたわけだ。
渋沢栄一記念館、エントランスで:埼玉県深谷市、下手計(しもてばか) 写真中の画面は渋沢栄一の生涯紹介映像によるパリ万国博覧会表彰式模様の図
大博覧会が始まったのは慶応三年5月、そこには蒸気機関車、蒸気仕掛けの紡績器具、常夜灯、水雷、探照灯などなど文明の利器数知れず、また銀細工なども展示されていた。渋沢栄一は日本は物価低廉なので外国と商いをすれば、国富が急速に吸い取られていく恐れを感じた、とのことである。日本からも多数の出品があり、日本がヨーロッパ人の想像もしなかった高度な文化を養っていたことが示され驚きをもって迎えられた。日本に割り当てられた会場は狭く、運んだものすべてを展示することはできなかった。
アメリカからは耕作機械、紡績機械(蒸気機関使用)が、イギリスは会場にエレベータを持ち込んだ。美術工芸品も豪壮、美麗をきわめ、医療器具、電線桟、絹織物(フランス、リヨン産)などもあった。渋沢栄一は機械類の仕組みがさっぱりわからず、自らを恥じる気持ちになったそうだ。
そのほか、各国の酒店や美女も目を引いた。日本の茶屋も好評だったとのことである。
また会場では、ベルギーのサポートを受けた薩摩藩と琉球国、佐賀藩の単独展示というのもあり、幕府の将来を暗示させる一幕となった。
この時期、一行はパリの飲用巨大貯水池施設見学、水道施設、下水道施設を見学し、また新聞の存在と、その服飾産業との深い関係を知ることになった。
博覧会終了後、一行は欧州巡歴を敢行する。目的は幕府の立場をヨーロッパ諸国に理解させることで、当初の訪問予定はベルギー、イタリー、イギリス、ドイツ、ロシアだった。ここで旅費調達問題が起きる。フランスの対日姿勢が変化し、旅費借り入れをヘラルトに拒否される。当初幕府の財務、軍事を支配する意図を持っていたフランスがもはや幕府の安定を信じなくなっていた。徳川昭武の日本出発時には公使扱いだったが、その後フランスでは冷遇された。最終的に旅費はオランダのハンドル・マカペー商会とイギリスのオリエンタル・バンクから借用した。渋沢栄一はこの金策にオランダを往復している。
巡歴は8月出発、まず汽車でスイスへ。シャンペン産地のシャンパーニュ地方を通り、ローヌ河畔のパールを経て首都ベルンへ。ここで大統領接見。軍隊調練を見学、歩兵2,800、大砲16門、騎兵72騎による山間での襲撃、操兵調練で、小国スイスの有事20万人農兵動員体制に感心する。トーン湖のほとりのバロンの館でヨングフロウ遠望、武器庫を見学し多数の新兵器を見る。ベベイでジュネーブ湖を船で渡る。ジュネーブで市内時計製造所を巡覧、驚くべく精巧緻密な製品を産出していること、幕府購入予定の新しい文字摺りだし型電信機を見学しその精妙さに感心する。我が国のICT革命は明治政府ではなくすでに幕府によって開始されていた。
次いでオランダへ。首都ハーグで国王謁見。国会開催の式典に招待される。港では巨大軍艦の祝砲に迎えられた。ライデンで蒸気機関型地下水くみ上げポンプ見学、同行したシーボルトの亡父別邸、日本風庭園訪問。船による汽車の輸送に感心、ロッテルダムを見物。
次はベルギー、首都ブラッセルの王宮で皇帝レオポルド二世に謁見、晩餐会に臨む。マリートワニュトの鏡、ガラス器具製造所を見学、次いで渋沢栄一にとって長く記憶にとどまる見学があった。それはリエージュのヨーロッパ最大の製鉄所である。3万坪という広大な敷地に1万人が働き、年間生産高3千万フランを生産していた。大砲製造所、石炭掘削機、蒸気船、蒸気車製造設備が付属していた。ここで皇帝自ら鉄の重要性を強調、自国の鉄を宣伝する場面があった。一行は皇帝が商いに言及することにも驚いた。ブラッセルでは建国記念日の祭典があり、美麗を極めたということである。
一行は一旦パリへ戻り、今度はイタリーへ。アンペリウル、サンミッシェル、スーザを経て、馬車も利用しチュラン(トリノ)の皇帝別宮へ。そしてフィレンツェで議事堂、モザイク細工教会など観覧し、皇帝エマヌエレ二世の謁見式典に臨んだ。そのあとピサの斜塔、鹿猟見物などが続く。
ここでイギリス女王からマルタ島招待があった。イギリス軍艦でマルタに赴き、軍艦の砲戦演習、陸戦隊の戦闘演習を観閲した。一行はその驚くべき実力を知ることになる。海軍の覇者の姿をまざまざと認識したようである。
10月にパリに帰着し僅かな休息の後、ドーバー海峡を越えてイギリスへ。ヴィクトリア女王に謁見、首都を観察、タイムス新聞社見学。精巧な機械が2時間で14万枚印刷するのに驚く。輪転機の操作者はわずか40人だった。
ウーリッジで歩兵、砲兵の調練を見学、銃砲製造所を見学、新式元込小銃7万丁の保管を知らされる。ブリティッシュ・ミュージアム、クリスタルパレス見学。海岸で砲術演習を見学、射程2里の60ポンド巨砲に肝を奪われた。海岸には、300ポンド大砲もあった。バンク・オブ・イングランド見学。政府の両替局、金銀貨幣拭改め場所、貯所、地金積置場、紙幣製作所を視察。これらの敷地は広大で、あらためて国富の大きさを推し量ることになった。ポーツマス軍港を訪れ、兵員1,600人が乗船する巨大輸送艦、300ポンド銃砲5門を装備する鋼鉄艦などを見学、步兵、騎兵、砲兵による大調練を視察、浮き橋の架橋を観察した。騎兵が馬を歩ませて渡れる方式に感心し綿密にノートをとったとのことである。
以上、津本陽の筆に導かれて博覧会から欧州巡歴を概観しただけでため息だ。ふと思う、これだけの見聞をして徳川昭武は別格としても、渋沢栄一の心に個人的ないわゆる「金儲け」の考えが全く浮んでいない、関心事は国益のみというところがまことに健気である。