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絶句、青淵、あまりにも偉大な(1) 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで

《はじめに》

 首都東京の活力を象徴するかのように、最近激しくリニューアルされた東京駅八重洲口をやや北に進み、日本銀行東洋経済新報社のほうへ向かうと、常盤橋という古めかしい橋の袂にコートを着て杖を突いた一人の男性の立派な銅像があるのに気づく。


常盤橋のなもと、背の高い基台に「青淵渋沢栄一」と縦書き、あの渋沢栄一の像だ

 近年、都心ではこうした大きな銅像を目にする機会は少ない。
 背の高い基台に「青淵渋沢栄一」と縦書き、あの渋沢栄一の像だ。
 「青淵」は雅号。
 もちろん名前は知っている。歴史上の人物だ。いくつか読んだ大前研一の文章にしばしば登場した。企業経営に関して海外の経営論にばかり目を向けずに、日本に渋沢栄一のような立派な経営者がいたことを研究せよという主張だった。日本に渋沢栄一のような立派な産業人がいたことをもっと世界に情報発信しなくてはいけない、あるいは各国語にして情報発信すれば、必ずや大歓迎されるだろう、とも言っていた。
 いろいろな本で、渋沢栄一は武士としてサムライとして産業振興に尽くし、これが日本の発展に大きく貢献した、あるいは日本の産業の発展は、単純な蓄財目的の産業人ではなく、サムライとして国家視野で産業に打ち込んだ渋沢栄一のような人物によって推進されたのが特徴である、というようなことも読んでいた。かくして、日本銀行を背景にこのような立派な銅像なのか、と思った。
 が、しかし、横にある銘文を読んでびっくり仰天である。
 天保11年(1840)、当時の武蔵國榛沢郡血洗島村、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に生まれ、志士になり、幕臣になってさらに欧州に赴き、帰朝後大蔵省に仕官。国立第一銀行頭取、興した会社は500、東京市養育院の助成、一橋大学日本女子大学の育成などなど。昭和6年(1931)、92歳で逝去。今日、1つの会社の社長、1つの銀行の頭取に上りつめることでも大変、そして1つの会社を興すことでも難しいのに、いくら傑出していたとはいえこの日本で1人の人物にどうしてこんなことが出来たのか、と思った。
 Facebookで友人と話題にしたら、先輩から津本陽の「小説 渋沢栄一」を教えられた。早速読んでみた。結構大部な書籍で、読んでいる間は渋沢栄一とその時代に「どっぽり」となる。そこに描かれた渋沢栄一の生涯は波瀾万丈、銅像の碑文に書かれていたのはほんの代表的な業績で、それは、それは、もの凄い功績だった。結局近代日本は全部渋沢栄一が創ったようなものだ。あの司馬遼太郎の「坂の上の雲」、秋山兄弟も児玉源太郎渋沢栄一の前には小さく見える。
 ちょっとは調べてみた。渋沢栄一についてはその伝記を含めて夥しい文書、沢山の研究発表や著述がある。渋沢栄一記念財団はじめWebサイトの情報も膨大だ。が、しかし、自分も何か書かずにはいられなくなった。読み終わった上下2冊の文庫本を書棚に戻してため息をついているだけでは申し訳ない。以下、一団塊世代の読後モノローグである。
 津本陽の小説に描かれた渋沢栄一の生涯には、激しい時代の流れの中で実に多くのイベントが次から次へと埋め込まれていて、これを俯瞰することなどとてもできない。かといって、逐一そのイベントを追ってコメントしたところで、何の面白味もない。そこで、その生涯のイベントの中で、現代の日本の社会、そして国際情勢との間合いを考えて筆者にとって印象深い話題を選んで、意味のある考察につなげたいと考えた。

現代人との間合い

 渋沢栄一の生涯と現代の我々の間合いを考えたとき、そこに何が来るだろうか。もちろんプロセスにおいても結果においても、まことに偉大だった存在から感化を受けることは大きい。あるいはもっと身近に、その振る舞い、言動から直接的にビジネス遂行上のHow toや教訓を得るというのもあるだろう。しかし一番大きいのは、その生涯をフォローすることを通して、各人が渋沢栄一の生きた時代の日本と世界への認識を深め、そこに続いている実体である現代社会への視線を磨くことが出来ることではあるまいか。
 一人の人間の立身出世という視点がある。
 渋沢栄一士農工商というはっきりした身分制度のある江戸時代の農家に生まれ、農業に励んだ。そこから、後に明治政府の大蔵省、ちょっと前の呼び方で大蔵事務次官相当にまで上る。次いで、本来の志である民間に転じ、本格的な金融システムを興し、銀行頭取、さら今の日銀総裁相当に就任。証券取引所を設立し、あまたの会社を興し、日本を代表する基幹的な大企業に育て、数え切れないほどの社長や会長を兼務する。大学を設立する。福祉事業を推進する。爵位や勲章も最高位である。日本の歴史ではいわゆる天下取りの太閤秀吉の例があり、近年、といってもだいぶ前になるが、貧弱な学歴、閨閥等にとぼしい境遇から首相になった田中角栄が今太閤と囃されたことがあった。
 こうした視点から現代人は何を感じたら良いのか。
 近年ではスポーツや芸術、学術などの国際舞台で日本人の大活躍があると、その試合ぶり、成果から、メディアでは「元気を貰った」「勇気を貰った」「夢は実現する」「夢を持ち続けよう」といった言葉が聞かれることが多い。しかし現実にはそうした業績と、これをTVで知る一般の人々の間にはもの凄い乖離があり、こうした気持ちは、問題だらけの現代社会の中で「元気を出して、夢をもって、前向きに生きて行こう」という程度の素朴な感情の発露でしかない。
 そう、キャリアパスの中で立身出世を願う人、営んでいる事業の成長を願う人、つまり多くの普通の日本人が渋沢栄一の生涯から「元気を貰う」ことがあれば、それはそれで結構だが、実際にはちょっと離れすぎで、それだけでは寂しい。
 やはりもっと違う視点があるだろう。こうした、いうなればキャリアパスの視点で最初に印象に残るのは、渋沢栄一が幕末の農家の生活から不本意ながら明治新政府の大蔵省に雇われるまでのプロセスである。津本陽の小説では、そこまでまさに波瀾万丈、あっという間に進行してしまう。しかし、この中に渋沢栄一のその後の大活躍、というよりも、それこそ日本という国家の大発展の芽が凝縮して育てられていたと言える。司馬遼太郎の言う「開花期を迎えようとしていた、まことに小さな国」の、その後の大爆発の信管が埋め込まれた。そして、そこには渋沢栄一の心の奥底にある人間としての行動の動機があった。