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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(3)

社会事業へ

 津本陽「小説 渋沢栄一」は伝記作品で、その生涯をもっぱら時系列に追う。第一国立銀行の業務が波乱の中に新体制で滑り出しほっとしたところで、いきなり社会事業へ視点が移る。話は明治七年、渋沢栄一が銀行業務で多忙な中、東京府知事から「共有金」の取り締まりを委託されたことに始まる。


東京養育院ゆかりの地の「子爵渋沢栄一像」(東京都健康長寿医療センター養育院中央記念広場:東京・板橋)

 「共有金」の起源は江戸時代、徳川第11代将軍家斉の時代、松平定信の江戸の町制改革にある。それは各町の町費を倹約させ、余剰金を積み立て、これに官金を与えて、火事、飢餓、疫病流行の際の備荒資金として増殖をはからせたもの、ということである。
 これを新政府移行後、明治五年まで町会所が保管、同年町会所廃止にともない一旦東京市に納められたが、これは本来東京市民の共有財産であることから、井上馨大久保利通が相談して、市中の声望ある豪商数人に東京営繕会議所という組織を設立させここに委ねた。営繕会議所は内部で委員を選び、事業を進めた。
 たとえば事業の一つとして、ロシア皇太子来朝に際して町にいた多数の乞食を保護し徘徊しないようにすることなども目標となった。が、委員たちはもっぱら公共土木事業を進めるばかりで、必ずしも東京府民の意向に沿わなかった。
 そこで東京府下の公議によって事業を起こすために東京府庁はこれを改組し、東京会議所として会議運営規則を定め、頭取、係員を選挙し、議事を行う組織とした。そしてここで、「乞食の保護、街灯の設置、共同墓地の設置、そして不具疾病者、浮浪人の収容など」の施策を進め、これらのために新たに「東京養育院」を開設した。これらの推進によってその活動は広く知られるようになった。(注)
 渋沢栄一は当初、共有金取締役を依頼されたが、追ってこの東京会議所の委員に推薦された。次いで、東京養育院院長、さらには瓦斯局の院長、商法会議所の評議員に任ぜられ、その実務に携わることになった。これらの社会事業は次第に渋沢栄一の生涯の仕事になってゆく。
(注:本文中「共用金」の用途に関する表現に現代では忌避される用語が含まれていますが、参照している津本陽「小説 渋沢栄一」の原典(2004年出版)のまま使用しています)
 このあたりの推移を見ると、武力の行使をためらわなかった革命政権である明治政府の行政が、結構血の通ったものであった印象を受ける。それも、幕府治下の政策と連続性をもって発展させているのに驚く。松平定信と言えば「寛政の改革」、それはその前の田沼意次時代への反動として推進された幕政改革だ。
 田沼意次のすすめた政策は江戸時代における資本主義、重商主義の推進と評価されている。富国強兵にすすむ明治政府が、東京市政という場で田沼意次の復活ではなく、松平定信の継承を計っている。このあたりに明治政府の必死さ、そして一種の度量のようなものを感じる。そしてこうした場に、まことにふさわしい人物として渋沢栄一が座らされているのにあらためて感心する。
 東京営繕所の推移を見ると、それはまるで現代の日本の縮図のようだ。今も昔も変わらない「隙あらば公共土木」を指向する勢力の存在、そしてロシア皇太子来朝への備えと現代の東京オリンピックへの備えなどまるで二重映しになる。
 このころ、東京府知事大久保一翁と前駐米公使森有礼が協議し、商法講習所を開設し、米国より講師を雇用する事業をはじめた。その費用は「共有金」から拠出され、渋沢栄一はこれに協力した。
 この商法講習所開設の背景はひとえに当時の日本の教育事情にあった。旧幕時代の学問といえば「漢籍」がすべてで、知識人とは「漢学」のできる人を意味した。自然科学は貧弱、物理、化学は皆無、政治も歴史学程度。農、工、商に関しての教育は実地に覚える程度で、算術も、商売の道も貧弱、支配階級の武士は、物質の生産をおこない利殖を図ることに弱かった。商人は金儲けだけを考え極めて狭量だった。商人に学問なく、外国人との交渉を円滑に行うことができなかった。
 
 そうした中で森有礼が商法講習所の経営を東京会議所に託し、これに渋沢栄一が協力することとなった。
 この商法講習所は運営に苦労し、追って官立となり、のちに東京商業学校、東京商科大学に発展した。今日の一橋大学の前身である。
 この教育機関開設の話題は団塊世代と呼ばれる現代人の筆者には逆の意味でちょっと胸に詰まるものがある。筆者は日本の大学のいわゆる理工学部出身で、卒業後関連した分野で何十年も職歴を積んできた。よく挨拶などで自分のことに「浅学非才にして」という表現を使うが、日本の大学や大学院の教育を受けていて「学」の不足を強調するのは適切でないだろう。が、現実には江戸時代そして明治時代を生きた多くの人々の素養であった「漢学」に決定的に欠ける。
 高校でちょっと触れた程度の漢文の知識では、父親の書いた文書は読めても、祖父の書いた書籍の判読に支障をきたし、曾祖父の手になる文書、特に漢詩は全く味わうことができない。まして歴史的な文書、文学作品は、古典でなくて幕末、明治以降のものでも翻訳者という仲介者なしにはその意味を知ることができない。漢詩に至っては翻訳からは表層的な意味を知るのがせいぜいで、詩としては鑑賞出来ない。さらにいわゆる『読書人』向け文書、つまり典故といって先人の業績や故事に関する豊かな認識を持っている者にのみ通じる文書は、翻訳されていてもほんとの意味を理解できない。翻訳に加えて解説者による本文よりも長くなる注釈や解説があってはじめて理解できるというのが実情だ。
 明治以来先人が営々として築いてきた豊かな教育を受けた者が、日々の社会生活はできても自分の祖先を含めて先人の文書や書籍、文学作品をほとんど読めない「無学な者」、「『読書人』とは呼べない者」に陥っている厳しい現実に気づかされる。現代日本の豊かな教育、それは「洋学」の教育であって、その陰に、長い歴史の中で練り上げられてきた知識と思想の集積である「漢学」の事実上の遺棄という途方もない行為があった。