先週,上海での2つのフォーラムが終わったあと,事前の計画通り,普陀山と寧波への小旅行に出かけてきた.
それまで地名しか知らなかったに等しい寧波という街に興味を惹かれたのは,略称「にんぷろ」と呼ばれる文科省特定領域研究プロジェクトの成果をまとめた全6冊の『東アジア海域に漕ぎだす』(東京大学出版会刊)を近くの図書館でみつけて,既刊の3冊を読んだからだった.このプロジェクトのホームページには,「なぜ寧波か?」と題して,次のような趣旨説明が書かれている:
寧波 (Ningbo、ニンポー) は,かつて東アジア海域交流のかなめの役割を果たした中国浙江省の港湾都市である.外港ではないが河川を通じて海につながり,それを溯れば水路を使ってそのまま杭州を経由し大運河に通じている.10世紀末には貿易監督の役所が置かれた.日本からの船はまずここに入港する決まりであり,最澄・栄西・道元・雪舟らの著名な留学生たちもここから上陸している.
16世紀には,細川・大内の両大名が貿易の利権抗争からこの町で戦闘行為(いわゆる寧波の乱)に及んだし,倭寇の根拠地は寧波沖合の島にあった.豊臣秀吉は,大陸侵略成功のあかつきには自身この町に移って東アジア全域に号令する構想を語っている.そんな意味で,日本人には馴染みの深い都市であった.中国国内における寧波は,12世紀に他の都市から群を抜いて多数の科挙官僚を輩出したことで知られる.その後も文化都市として有名で,天一閣蔵書館はその象徴だと考えられる.この繁栄は,後背地である浙江東部地域の各種産業に支えられ,アヘン戦争後に上海が開港するまで、寧波は貿易・商業都市としても栄えていた.
東アジア海域シリーズの第2巻『文化都市・寧波』には,現存する中国最古の蔵書館「天一閣」についての詳しい説明が載っていて,強くわたしの興味を惹いた.子どものころから分野を問わずさまざまな書物に興味があり,仕事や趣味の両面であちこちの図書館でお世話になってきたせいかもしれない.6月にアイルランド・ダブリンのトリニティ・カレッジで訪問したヨーロッパ中世の代表的図書館「ロングルーム」と比べてみたいという気持にも駆られた.
今回の旅は,まず上海からバスとフェリーで寧波沖の舟山群島の普陀山を観光して1泊,翌朝またフェリーとバスを乗り継いで寧波に着いたのは2日目のお昼ころだった.とりあえずホテルにチェックインし,市内中心部の広場を散策して昼食をとったあと,いまは博物館として一般に公開されている天一閣に向かった.中国の他の都市と同じように,市の中心部は高層ビルや高級ブランド・ショップなどが立ち並んでいるが,上海や北京とは違って大勢の物売りや客引きにうるさくまとわりつくことがないのはうれしい.庶民向けの衣類や雑貨の店が集まった市場ビルを覗いてみたが,買い物に来ていた人びとの行動もなんとなく落ち着いた雰囲気だった.ただし地下鉄建設の工事があちこちで進行中なので騒音と埃が気になるのはやむを得ない.
にぎやかな繁華街から10数分歩いたところに,月湖と呼ばれる三日月型の大きな池を囲んだ静かな緑の公園があり,池を半周してその西側に出ると,まだ再開発が終わっていない古い町並みを流れる小川のほとりに,目的地の天一閣博物館があった.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%B8%80%E9%96%A3
http://baike.baidu.com/view/16659.htm
http://baike.baidu.com/view/475214.htm
予想していたより規模がかなり大きいので驚いたが,館内に展示されていた写真を見ると、一時はかなり荒廃していたことが窺われる.しかし,文革の荒波を掻い潜って,数万点の古文書がほぼ完全なかたちで保存されたというのは奇跡的である.何回かに分けて修復され,市内にあった他の蔵書楼の建物もここに移築され,寧波博物館と合体して現在のかたちになったようである.中国各地にある他の蔵書楼を紹介する展示や,ここの蔵書を研究した過去の文人たちの肖像や略歴を並べた展示も興味深かった.また,今回は時間がなくて覗けなかったが,寧波は麻雀発祥の地といわれており,この博物館の片隅には,麻雀の歴史を展示した建物もある.
ここに所蔵されている膨大な蔵書アーカイブの1/5にあたる5,000種30,000冊は,北京大学系列のソフトウェア会社・方正国際軟件公司の手でディジタル化され,「天一閣古籍数字資源庫」として一般に公開されているようだ(http://www.tianyige.com.cn:8008/default ).そういえば、アイルランドのロングルーム所蔵の有名な『ケルズの書』も現在では DVD で入手することができる.
帰国したあと,ネット上の Science Portal China という Web Page の「コラム&最新事情」の欄に『蔵書楼と文庫』と題するエッセイを見つけた.筆者はかつて早稲田大学に研究員として来日されたことのある朱新林さん(もと浙江大学哲学科,現在は山東大学文化伝播学院講師).中国及び日本における蔵書楼や文庫の歴史が手際よくまとめられている.
このエッセイによれば,中国における蔵書楼は,前蓁時代の各王朝の宮廷での文書管理から始まっているとのこと.文字を記すための紙が蔡倫によって発明されたのは後漢時代になってからだから,それ以前の文書は竹簡または木簡を用いていた.その収蔵はさぞかし大変だったろうと想像される.司馬遷が『史記』を編集したさいには,過去の14王朝の記録を記した竹簡を並べて比較検討するために,宮廷内の大広間を長期間占有することを必要とした.つまり『史記』の編集作業は,けっして司馬遷の私的な著作活動ではなく,大量の資材やスペースそしてスタッフの労力を用いた大規模な国家プロジェクトだったというわけである.そのあたりの事情は,平勢隆郎さんの労作『史記の「正統」』(講談社学術文庫)に詳しく書かれている.
製紙ならびに製版・印刷技術の発明は,中国が人類文明の発展に寄与した大きな貢献のひとつに数えられる.ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国が敷設した国際貿易道路網のおかげでその恩恵を受けたヨーロッパの人びと(当時は未開野蛮だった)がどれだけ感激したことか,イギリス中世の代表的文学者チョーサーが『カンタベリー物語』に挿入したチンギス・ハーンを称える長詩はそのひとつの証拠であろう.
文字の国・中国の各地にその後さまざまな文書アーカイブとしての蔵書楼が作られたのは至極当然の成り行きであった.しかし,それらの多くは歴史の波に飲み込まれて消え去り,現在は近代的な図書館にかたちを変えてしまった.そしていま,コンピュータ技術の発展にともなって,紙の図書館がディジタル・ライブラリに変貌しつつある.電子媒体の寿命は紙と比較するとかなり短いのだが,その欠陥をカバーする革命的な技術は,いつごろどのようなかたちで誕生するのだろうか.