IT記者会Report

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インターネットの海

 これまで20年ほど,いつも9月に開いてきた絵のグループ展が前回で打ち止めになり,今年の夏は少し時間の余裕ができたので,創作エネルギーの蓄積を目的としてあちこちの展覧会を観たり,読書に精を出すことにつとめた.
 この夏に読んだ本のなかで一番刺激を受けたのは,『東アジア海域に漕ぎだす』(東京大学出版会)であった.これは,「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成」(通称「にんぷろ」)という共同研究プロジェクトの枠組みの中で2007-2010年までボランティア・ベースで活動した「東アジア海域史研究会」での研究・討論の成果をまとめたものである.全6巻のシリーズのうち,これまでに,(1)『海から見た歴史』,(2)『文化都市・寧波』,(3)『くらしがつなぐ寧波と日本』の3冊が刊行されている.
 以前,オープンソース問題に関連して,ユーラシア大陸に張り巡らされたモンゴル帝国の道路ネットワークを今日のインターネットと比較し,道路上のノードとして作られた自由都市オープンソース・ソフトウェアの喩えたことがある.そのさい,ブロードバンド・コミュニケーション・メディアとしての海上交通にも着目し,大航海時代のイタリアの港湾都市や日本・中世の堺などにおけるモノや情報の交易について少し考察を加えたのだが,この「東アジア」シリーズ第1巻の『海から見た歴史』は,そうした観点からきわめて示唆に富む内容を含んでいる.

 通常の歴史書は,中国大陸・朝鮮半島・日本列島などの陸上の地域ごとに王朝の興亡などを描いて行くのだが,この本のアプローチはそれとは違って,東アジアとは,海域とは,そして東アジアという地域的な特性とは何かについて,まずプロローグで概要を示したのち、海域の歴史を,13世紀半ばから14世紀半ば,16世紀,そして18世紀という3つの100年間に区切って,それぞれの時期の特徴を「ひらかれた海」「せめぎあう海」「すみわける海」ととらえて時代の構図を描き,交流を担った人やモノ・情報について語るというかたちになっている.
 モンゴル帝国の誕生によって,陸上のネットワークにつながる海上交易がはじまった「ひらかれた海」の時代から,中国人海商,倭寇、さらにはムスリム商人やヨーロッパからの貿易商や宣教師が入り混じって活動した16世紀の「せめぎあう海」の時代を経て,陸上に形成された新しい政治権力(中国の清朝,朝鮮や琉球の各王朝,日本の徳川幕藩体制)によって海域が分割されてゆく18世紀の「すみわける海」へと,歴史は続いて行く.
そうした時代の流れの中で,海を行き交う人びとと陸上の政治権力とのやりとりの経緯は,インターネットの海を歩き回るプログラマたちと陸上(ネット周辺)に棲む営利企業や各種公的機関との関係に引き比べてみるとなかなか興味深い.

 「すみわける海」の時代,陸上の各国政府のあいだには正式な外交関係は存在しなかった.にもかかわらず,暴風雨そのほかの理由で海岸に漂着した外国人に対しては,国費でその滞在生活を支援し,適当な機会を見つけて母国へ送り返すということが慣例になっていたというのは驚きである.19世紀以降、いわゆる国民国家イデオロギーの台頭とともに,東アジア海域は「わけへだてる海」へと変貌してしまった.尖閣や南西諸島をめぐる争いはそこに起因している.人間社会の政治システムは,大規模ソフトウェアと同じように時間の経過につれて構造劣化するのだろうか.
 シリーズ第2および第3巻は,アヘン戦争の結果として上海が開港されるまでの1000年近くのあいだ,東アジア海域最大のハブ港として機能していた寧波の街に焦点を当てている,10月に上海での会議が終わったあと,寧波への小旅行を計画しているので,参考文献として読んでみたのだが,いくつか(わたしにとって)の新知識を提供してくれた. 
 16世紀半ばに清朝の一官僚の手で建立され,以後13世代にわたり子孫によって維持されてきた中国最古の個人蔵書館・天一閣の名前は初めて聞いた.6月アイルランドでの国際会議への途中,ダブリンのトリニティ・カレッジで中世の図書館ロング・ルームを覗いてきたばかりなので,いまは博物館として一般公開されている天一閣もぜひ訪問したいと考えている.

 寧波市内には,中国禅宗五山のうち,天童寺(栄西道元が修行したところ)と阿育王寺(ここの典座すなわち厨房係の老僧に,寧波に到着したばかりで船上に仮泊していた道元が教訓を受けたというのは有名な逸話)の2つがあるのだが,ネットに載っている写真を見るとかなりきれいに修復されているようなので,あまり行ってみたいとは思わない.
 それよりも,第3巻で紹介されている「船上生活者」(漁民・水上居民)の話のほうが興味深かった.かつて支配王朝に対抗した叛徒の末裔と見られている九姓漁戸の人びとは,海や運河での航運や漁業に関して重要な社会的役割を担っていたにもかかわらず,科挙の受験や陸上民との結婚を認められず,解放前までは「賎民中の賎民」という扱いをうけていたらしい.なんとなく,現代社会におけるプログラマという職種の境遇に思いを馳せるのはわたしだけだろうか.
 第2巻における宋元交代期の知識人についての記述では,いまはもう死語と化した「九儒十丐」という熟語が登場する.モンゴル(元)帝国が創設されたころの社会的階級秩序の話であるが,「一官・二吏・三僧・四道・五医・六工・七猟・八民・九儒・十丐」というランキングが存在した.「儒」すなわち知識人は「丐」すなわち乞食よりわずかに1ランク上の底辺に位置付けられている.西域由来の当時最新であったイスラム科学技術やウイグル流マネジメント方式を重視した当初のモンゴル帝国において,旧来の中華文明の中だけで生きてきた知識人たちが冷遇されたのは当然のことであったと想像される.ひるがえって,21世紀の現在,知識人たちの社会的ランキングはどうなっているだろうか?