岐阜で行われた SS2013 PC Meeting の翌日,信州・駒ヶ根で伊那谷に住む老詩人・加島祥造の講演を聴く機会があった.老荘思想をベースにした癒し系の詩集『求めない』,『受いれる』(いずれも小学館)で近頃は有名だが,もともとは英文学者で荒地グループの同人.タオイズムへの接触は,英訳版の『老子』を読んだのがきっかけだという.仏教の経典や中国思想の古典は,漢文で読むより。英訳版のほうがわかりやすく新鮮な感触で読めることは疑いない.浄土,華厳,唯識といった漢字の宗派名よりも Pure-land, Flower-garland, Conscious-onlyという英語のネーミングのほうがはるかに耳ざわりがいい.
加島のタオイズム・エッセイは,英訳版『老子』のニュアンスにかれ流の解釈を加えたかたちであって,何となく人生に疲れた人びとの心に受け入れられる味わいを含んでいることはたしかだが,それだけの話であって,わたしはあまり魅力を感じない.かつて『荒地詩集1953&1954』に,かれが北村太郎と連名で書いた詩論『詩の定義:直喩および隠喩について』を読んだときの知的刺激のほうが大きかった.
『老子』という書物をどう読むかは,人によってさまざまである.それ以前にオリジナル・テキストがどれだかよくわからないという事情も存在する.なにしろ,紙や印刷術が発明される前に書かれた書物なのだから仕方がない.有名な「道可道非常道 名可名非常名」(道の道とすべきは常の道にあらず.名の名とすべきは常の名にあらず)という冒頭の句については,荻生徂徠の手で『弁道』および『弁名』(道および名を論ずる)というメタ言語論的解釈にもとづく哲学エッセイが書かれていて,18世紀江戸思想が到達したピークのひとつだと評価されている(子安宣邦,『徂徠学講義』,岩波書店).わたし自身,徂徠にならって「道」を「ソフトウェア・プロセス」と読み替えてみたらどうかという考察を,かつて SEA-SPIN や JASPIC のいくつかの会合で指摘したことがある.
わたしにとって,プロセス問題を考えるさいに,もうひとつ気にかかっているのは,晋代の思想家・葛洪が作ったといわれる『河上公本・老子』に載っている「数車無車」(車を数えて車なし)という一句である.車は,車輪や車軸あるいは轅(ながえ)などの部品に分解できる.しかし,そうやってばらばらな部品に分解していった結果はといえば,個々の部品は実在するが,もともとの「車」はただ名前しか残らず,どこかへ消えてしまう.
存在論に関するこの「車」の比喩は,しかし,『老子』のオリジナルではない.それより先行して,BC150年ころに西北インドを支配したギリシャ王メナンドロスと仏教の尊者ナーガセーナとの対話を記録した『ミリンダ王の問い』という書物がある(平凡社東洋文庫.漢訳の原典は『那先比丘経』).ミリンダ王は,アレキサンダー大王のインド侵略のあとで作られたギリシャ系王朝の末裔.幼時の家庭教師はアリストテレスだった.この対話は,だから,ギリシャ論理学と仏教論理学との対決だとも考えられる.
尊者に向かって「自分はあなたに会いに車で来た」と王が語ったところから対話が始まり,尊者は「何が車なのか」を相手に問いかける.「車軸なのか、車輪なのか,あるいは轅なのか」と.そして長い対話の結果,尊者は王に,車の書く部品は,それぞれ個別の名前を持つ事物として存在するが,車という存在は単にその名前だけの抽象概念に過ぎないということを認めさせるのである.「たとえば,部分の集まりによって車というコトバがあるように,五蘊(5つの基本的な構成要素)が存在することによって,生きるものという呼び名があるのだ」というのがこの対話を締めくくる偈として与えられている.しかし,般若心経では「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空」として,生きとし生けるものの身体を構成する部品も,すべて空だと否定されてしまう.
アリストテレスその他のギリシャ哲学に始まる西欧思想の基本パラダイムは,考える対象(世界)をその構成要素に分解し,それらの部品の集まりとして対象を理解しようというものである.現代の科学も,原子論あるいは対象の断片化ともいうべき路線を極めようというかたちで進化し続けている.しかし,ばらばらに断片化された部品を理解しえたとして,その集まりとしての対象の全体像がほんとうに理解できるのだろうか.
20世紀物理学が達成した成果の一つに量子力学がある.そこで発見された重要な原理は「観測者の問題」であった.対象世界を理解するための実験を行う観測者が,実は世界の一要素として対象の中に含まれており,観測者の意図次第で観測の結果が異なるという事実が,有名な「光は波か粒子か」の実験で明らかになったのである.
ソフトウェア・プロセスについていえば,開発プロセス全体をいくつかの構成要素(ステップ)に分解して考えることが一般に行われている.しかし,そのようにプロセスを観察し分析し考える人間の思考プロセスもまた,開発プロセスを構成する要素の重要な一部分であるということが,ともすれば忘れられているように思われる.「プロセスを数えてプロセス無し」といった状況がしばしば発生することの理由はそのあたりにあるのではないだろうか.