ソフトウェア・シンポジウム2013 in 岐阜(7/8-10 @ 長良川国際会議場)の参加者募集がいよいよ始まった(http://sea.jp/ss2013/).ちょうどよい機会なので,この場を借りて,岐阜が生んだ江戸末期の女流詩人の作品を紹介しておきたいと思う.
江馬細香(1787−1861).亡くなったのは74歳だから,いまのわたしの年齢から考えれば,やや年少の妹のような感じがする.美濃国大垣藩の医師江馬蘭斎の長女,本名は多保.幼少時代から漢詩・南画に才能を示し,絵は浦上春琴に,詩はたまたま美濃を訪れた頼山陽に師事した.ふたりはやがて恋仲になったが,父蘭斎の反対にあって結婚は叶わず、山陽は京都へ上って他の女性を妻に迎え,細香はそのまま生涯独身を貫いた.安政の大獄の折,官憲に追われて大垣へ逃れてきた山陽の息子・頼三樹三郎をひそかにかくまってやったという話が幕末史のエピソードとして残されている.
わたしが細香の名前を知ったのは,門玲子著『江戸女流文学の発見』(藤原書店,1998)で,かの女が晩年に,かつての山陽との恋の思い出を詠った「夏夜」という詩を目にしたのが最初だった.
碧天如水夜清涼 月透青簾影在觴
細酌待人人不到 一繊風足素馨香
見た目には堅苦しい漢字を連ねただけの方形の作品であり,とてもこれが恋歌だとは思えない.しかし,江戸時代の詩人たちにとって,第一外国語は,当然のことながら中国語であった.知的な女性としての細香が,作品を漢詩というかたちで創作したのは無理からぬことである.現在のシンガーソングライターたちが英語をちりばめた詞を書く風潮と同じことである.
ちなみに,儒学の世界で当時一世を風靡した荻生徂徠が江戸・茅場町に開いた私塾では
長崎から対明貿易の通詞を招いて会話を勉強し,徂徠自身の講義も中国語で行われたということである.宝井其角に「梅が香や,隣は荻生惣右衛門」という有名な句があるが,其角先生,いまでいえば,英会話学校のお隣に住んでいるような心境だったのだろう.
したがって,上に掲げた漢詩を,単純に「碧天水の如く,夜は清涼なり」と書き下し文にしただけでは意味がない.思い切って,ブルース風に意訳してみることにしよう.
みどりの夜空いっぱいに
だれかがアイスキューブをまきちらした
さあ お月さま
わたしのグラスにおりていらっしゃい
ジャスミンの香りのカクテルを手に
わたしはずうっと待っているのだけれど
あのひとはなかなかやってこない
からだのなかをつめたい風が吹き抜けてゆく若き日の細香に,同じ「夏夜」と題した作品があるが,こちらは現在進行形の唄い方で、いささかエロティックな匂いが感じられる
雨晴庭上竹風多 新月如眉繊影斜
深夜貪涼窓不掩 暗香和枕合歓花
外も雨があがったみたい
風の音が急に聞こえてきた
身体が火照っているので
窓は開けっ放し
新月の細い影が
ふたりのからだを横切って行く
暗い部屋のなかで 枕には
まだ 汗の匂いがほのかに残っている
この詩の批評を頼まれた山陽は、さすがに気恥ずかしかったのだろう.「窓を開けたままというのは身体に毒ではないか」と一言述べただけだったという.中村真一郎の『江戸漢詩』(岩波・同時代ライブラリ)には,山陽との恋愛事件を題材にした細香の青春時代の作品が何篇か収録されている.堅苦しい漢字の連なりの背後に見え隠れしている情感を読み取ることができるかどうかは,読者の感受性いかんにかかっている.
さて,今年のソフトウェア・シンポジウムで,IT記者会の佃均さんとわたしは「ソフトウェアと文化」を議論するワーキング・グループを主宰することになった.
http://sea.jp/ss2013/working_groups.html#wg10
コンピュータ・ネットワークの進展につれて,これからの世界でソフトウェアがはたす役割はますます大きくなって行くだろうと予想される.そのさい,ことがらの技術的側面だけを論ずるのではなく,さらに視野を広げて,ソフトウェアが社会や文化に与える影響について検討することが必要だと考えるからである.関心ある方々の参加をお待ちしたい.
【付録】ついでに,細香と同世代のもうひとりの女流叙情詩人の漢詩を一篇紹介しておこう.陸奥国仙台の商家に生まれ,独学で詩や書を学び,後に江戸に出て活躍した高橋龍(ペンネームは玉蕉,1802 – 68).わたしが気に入った作品は次の「早春雨中」,いかにも女性らしい情感にあふれている.
無酒無花空渡時 春寒料峭粟生肌
新泥細雨情慵出 独向窓前覆昨碁おさけ きれちゃった
さくらも おわって
むなしい あささむいわ
なんだか さむけがする
とりはだが たちそうもう いや
なんにも かんがえるきがしない
にわには きりさめとらんぷの ひとりあそびも
あきちゃったし
はるは やっぱりやさしい敵
最後の1行は原詩にはない.アメリカのミステリ作家ジェームス・エルロイの小説から拝借させてもらった.