IT記者会Report

IT/ICTのこと、アレヤコレヤ

3人のヨーゼフ(その2)

 1980年代のわたしは,Daylight Business としてのコンピュータ・ソフトウェア関係の仕事に追いまくられていて,Moonlight Painting に時間を割くゆとりはほとんど存在しなかった.学生時代に友人たちと結成した「いすグループ」の芸術活動が復活して,1985年の夏に新宿・紀伊国屋画廊で開かれた復活第1回展にも,以前に描いた旧作を並べて何とかその場を凌いだ記憶がある.
 1972年に友人とアメリカへ遊びに行ったとき,帰り道に立ち寄ったシアトル科学博物館の売店で買い求めてきた迷路パズルの本に知り合いの出版社が大いに興味を示し,わたしがパズルのタイトルだけを翻訳して刊行したのだが,それを見た週刊誌・サンデー毎日の編集部から依頼がやってきて,以後十数年にわたって毎週迷路パズルを作る羽目に陥ってしまった.そのことはしかし,絵を描くことの代償行為として役に立ったように思われる.

 パズルとしての迷路の特徴は,その解き方が論理的にはバカバカしいほど単純であり,知的能力の育成には何の意味もないということである.つまりそれは,無為な時間つぶし(Time-Killing)のための道具でしかない.したがって,イギリスの本格的迷路である畏友グレッグ・ブライトによれば,迷路の正しい楽しみ方は,大きな紙に1センチ四方ほどの小さな孔を開けたもので全体を覆い,その孔から見える部分だけを頼りに,2次元世界の住人としてのあてどない散歩を試みることだそうである.
 絵描きとしてのわたし自身は,迷路作りに際して,その全体の形を考えることをまず楽しんだ.また,できあがった迷路の解をチェックするさいには,袋小路をさまざまな色の鉛筆で塗りつぶして行き,最後に解答の道筋が白く浮きあがってくる抽象絵画もどき結果を,一種のランダム・アートとして眺めるという楽しみが存在した.
 そうしたディレッタント生活のなかで,もっとも大きな芸術的衝撃を受けたのは,1980年の秋,仕事の関係でニューヨークを訪れたときに,MOMA(近代美術館)で遭遇したヨーゼフ・コーネル(Joseph Cornel)の回顧展であった.一連の展示室に次から次へと並べられた3次元コラージュとしての「箱アート」の群れは,鑑賞者に異様な精神的興奮を与えるものであった.どれか個別の作品が特に印象に残ったというわけではない.3年前にサンフランシスコMOMAで開催された展覧会 “Navigating the Imagination” のカタログを娘に買ってきて貰って眺めたが,そのうちどの箱をニューヨークで観たのか,記憶は定かでない.
 コーネルの「箱」が持つ社会心理学的な意味合いについては すでに「いす2008」の展覧会パンフレットでわたしなりの考察を述べた.マルセル・デュシャンが,ただの便器に「泉」とタイトルをつけて展覧会に出品したという有名な事件に象徴されるように,「何でも芸術である」というニューヨーク・ダダ運動の流れの中にコーネルも入っていたことは明らかである.「ダダは何も意味しない」というトリスタン・ツァラの宣言にしたがうなら,コーネルの「箱」を目の前にしたわたしたちのとるべき行動は「ただ,それを眺めて沈黙すること」なのであろうが,箱の中に詰め込まれたさまざまなガラクタが引きずっている「意味」を無視することが難しいので,多くの人びとはそこに何かの啓示を見出そうと考えてしまう.

 「システム (System)」 という英単語の語源は,古代ギリシャ語に由来している.”Sy” は “Symphony” の “Sy” で「一緒に」,”stem” は「モノを置く」という意味の動詞 “histani” の語幹.すなわち “System” とは,「いくつかのモノを一緒に置く」ということを意味する. 置かれたモノたちのあいだには,何らかの関係がある.ここで,「ある」といういい方は正確ではない.そうした関係を認識するのは,システムを見るわたしたちの主観なのだから,モノたち相互関係があらかじめシステムの設計者によって設定され,それをわたしたちが見て再確認する(あるいはそれに対してなんらかの違和感を感じたりする)というのが正しい.
 ダダイストたちは,さまざまなモノをランダムに配置して作品を構成した,かれらは,それらのモノたちが持つ日常的な意味(関係)を破壊しようとしたのである.それに対して,より文学的色彩を重視したシュールレアリストたちの場合は,コトバの日常的な意味(相互関係)を変革し,新しい意味や関係を創造することを意図した.それが,芸術運動としての両者の違いだと考えられる.シュールレアリスムの影響を色濃く受けたコーネルの作品は,箱に詰められたモノたちの文学的関係を模索する試みだったのであろう.「箱」を鑑賞する詩人たちが,その点に大きな魅力を感じることは理解できる.2009年に,コーネルの7つの「箱」と高橋睦朗の詩とを組み合わせたかたちで,川村記念美術館で開催された展覧会「箱宇宙を讃えて」はそのことを実証した一例である.

 純粋な美術的見地からすれば,コーネルの「箱」は,モノたちの持つ色・形・マチエールのあいだの非日常的関係を追及した3次元コラージュ作品だと解釈すべきなのであるが,そういう目で眺めようとすると,箱の中に観察されるモノたちの「文学的」な関係が,どうしても邪魔になってしまう.それは,パウル・クレーのタブローに描かれている記号や形と同じく,作品の本質をカモフラージュする仕掛けなのだと考えられないこともないが,しかし,コーネルやクレーの意図がはたしてどのあたりにあったのかはわからない.
 ソフトウェア・プロダクトをひとつの「箱」だとみなした場合,そのなかに含まれているモノたちをどう扱えばよいのだろうか.それらは、「箱」のタイトルが示す何らかのアプリケーション・システムの要素であり,開発者があらかじめ意図した関係の中に位置づけられているのだが,その関係を無視あるいは破壊することはできないだろうか.そうすることによって,ソフトウェア・システムの持つ意味がガラリと変わってくる可能性がありうる.