IT記者会Report

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ソフトウェアとコトバ (9) 加上について

 昨秋9月末の展覧会の1週間で何回分かの原稿が書けると考えていたのだが,みごとに予想が外れてしまった.どうやらわたしの頭から物書きとしての機能が失われ,完全に画家としての機能しか働かなくなってしまったのだ.おそらくそれは絵画に対するわたしの方法論(何かを絵に描くのではなく,色とかたちとマチエールだけを追求し,タブローから意味というものをできるだけ排除して,ただ絵を描こうとするアプローチ)のせいであろう.
 文章を書くには,しかし,それぞれの単語の意味や文章のレトリックが重要なのである.その後,ある学会の集まりで講演を依頼されて,その発表スライドを作るのに,いつもの何倍かの時間を要したのもその後遺症だったと考えられる.
 年末年始の休日の時間を使って,ようやく頭の構造がもとに戻ってきたようなので,この連載コラムを再開することにしよう.今年も秋に展覧会が予定されているので,そろそろ作品の制作に取りかかる必要があるのだが,去年の例に懲りて, 色やかたちに何らかの意味を持たせる画法に切り替えるつもり.

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 富永仲基がその主著『出定後語』で提起した「加上」のテーゼが、荻生徂徠の「勝上」に影響されているということは,多くの人びとが指摘する通りであろう.徂徠の「勝上」は,伊藤仁斎との哲学論争に勝つという意欲から生まれた.この論争が,しかし,相手の仁斎がすでに死んでしまったあとの話(きっかけは,徂徠が仁斎宛に書いた儀礼的な賞賛の手紙を弟子たちが徂徠に断りもなく仁斎の遺稿集に収録してしまったことへの怒り)であり,それが野次馬たちの目に単なるスキャンダルとしてしか映らなかったことは,18世紀日本思想史の展開を考える上で大きな損失であった.
 仲基の「加上」は,それとは違って、儒仏の膨大な古典を読破し,東洋史上に存在した無数の思想家たちの言説を詳細に分析した結果としてかれが発見したものであり,人間の唱えるあらゆる思想的言説の本質を鋭くえぐっている.

 仁斎も徂徠も,思想的には,当時の主流であった朱子学を批判する「古学派」に属している.朱子学は,16世紀,南宋の偉大な哲学者・朱子が,それまでさまざまな儒家によって解かれていた言説を統一した言説であり,「修身・斎家・治国・平天下」(教育的テキスト『大学』の序章)というマネジメント・パラダイムが,中國,朝鮮そして日本の支配階層に人気を集めたことで知られる.徳川幕府公認の学問体系としても採用されたが,その影響は今日まで続いていて,現代の政治家が『大学』のフレーズを引用したりしている.わたし自身,何度か指摘したことがあるが,ワッツ・ハンフリーが提唱した”PSP, TSP, CMM” というソフトウェア・プロセス・マネジメントのパラダイムも『大学』の焼き直しに過ぎない.
 富永仲基がその主著『出定後語』で提起した「加上」のテーゼが、荻生徂徠の「勝上」に影響されているということは,多くの人びとが指摘する通りであろう.徂徠の「勝上」は,伊藤仁斎との哲学論争に勝つという意欲から生まれた.この論争が,しかし,相手の仁斎がすでに死んでしまったあとの話(きっかけは,徂徠が仁斎宛に書いた儀礼的な賞賛の手紙を弟子たちが徂徠に断りもなく仁斎の遺稿集に収録してしまったことへの怒り)であり,それが野次馬たちの目に単なるスキャンダルとしてしか映らなかったことは,18世紀日本思想史の展開を考える上で大きな損失であった.
 仲基の「加上」は,それとは違って、儒仏の膨大な古典を読破し,東洋史上に存在した無数の思想家たちの言説を詳細に分析した結果としてかれが発見したものであり,人間の唱えるあらゆる思想的言説の本質を鋭くえぐっている.

仁斎も徂徠も,思想的には,当時の主流であった朱子学を批判する「古学派」に属している.朱子学は,16世紀,南宋の偉大な哲学者・朱子が,それまでさまざまな儒家によって解かれていた言説を統一した言説であり,「修身・斎家・治国・平天下」(教育的テキスト『大学』の序章)というマネジメント・パラダイムが,中國,朝鮮そして日本の支配階層に人気を集めたことで知られる.徳川幕府公認の学問体系としても採用されたが,その影響は今日まで続いていて,現代の政治家が『大学』のフレーズを引用したりしている.わたし自身,何度か指摘したことがあるが,ワッツ・ハンフリーが提唱した”PSP, TSP, CMM” というソフトウェア・プロセス・マネジメントのパラダイムも『大学』の焼き直しに過ぎない.
 当然のことながら,『出定後語』は,当時の仏教界から猛烈な反発を食らった.同時代にこの本にポジティブな評価を与えたのは,本居宣長平田篤胤などの国学者だけであった.かれらは,神道を信奉する立場から,仲基の儒仏に対する批判を高く評価したのである.篤胤などは『出定笑語』なるパロディまで書いている.仲基は『翁の文』で,儒仏と合わせて神道をも一刀両断にしていたのだが,そのへんはわざと目をつぶったらしい.

 江戸時代に富永仲基の名前は,『出定後語』に対するスキャンダラスな批判を除けばほとんど無視されていた.長い忘却のあと,仲基の業績を再発見し,そのユニークな文献学的方法論を正当に評価し世にPRしたのは,京都大学東洋史学のリーダーだった内藤湖南である.大正14年に行われた講演「大阪の町人学者富永仲基」が,ちくま学芸文庫の『先哲の学問』に収められている.湖南が再発見し高く評価した仲基の「加上」+「三物五類」の方法論はその後京都学派に受け継がれた.たとえば,武内義雄の中国思想史研究などがその典型的な一例であろう.しかし,単に宗教思想史だけでなく,あらゆる分野の言説に適用することが可能な仲基の方法論に対する一般の認識は決して広まっているとはいえない.江戸思想史における仲基の位置づけもまだ曖昧なままなのはなぜだろうか.
 ソフトウェア工学の歴史はまだ数十年しかないが,その短い時間の中でさまざまな言説が説かれ,現在もなお新しい言説が次から次へと登場しつつある.その状況を仲基流のアプローチで分析してみようというのが,この連載コラムの目的なのだが,さて,どこまでできるだろうか.今年は少し頑張ってみよう.