IT記者会Report

IT/ICTのこと、アレヤコレヤ

ソフトウェアとコトバ(3)

 18世紀初めに彗星のごとくあらわれた天才・富永仲基の存在が,当時は一種のスキャンダルとしてしか扱われなかったことは,日本における思想史を考える上でいささか不幸なことであった.
 江戸時代にこの国の経済を支える中核として機能していた商都・浪速は,また,井原西鶴近松門左衛門を生んだ文化都市でもあった.その街で活躍していた商人たちの有志(五同志と称される)が,使用人や子どもたちに学問を学ばせる私塾「懐徳堂」を創立したのは享保9年(1724)のことだった.この塾は,その後、徳川将軍吉宗の公許を得て大阪学問所というかたちになり,多くの町人思想家を輩出した.
 江戸の徂徠学に対抗してアンチ徂徠の勇ましい論陣を張った中井竹山,その弟でユニークな内的哲学世界を展開した中井履軒,大名両替商・升屋の大番頭として仙台伊達藩の財政再建に尽力しながら,地動説その他の洋学知識を取り入れた博物学的自伝『夢の代(ゆめのしろ)』を著した山片蟠桃,同じく両替業に従事し引退後に日本貨幣史の大著『三貨図彙』(全44冊)をまとめた草間直方などがその代表として挙げられる.宮川康子さんが述べているように『自由学問都市・大阪』(講談社)のシンボルともいうべきスクールだった.

 仲基は,その懐徳堂創立に尽力した五同志のひとり富永芳春こと道明寺屋吉左衛門の三男として1715年に生まれた.通称は道明寺屋三郎衛門.学問好きの母(芳春の後妻)の影響でかなり早熟な子どもだったようだ.創立当初の懐徳堂儒教や仏教などの古典を読みあさるうちに,独特な文献資料分析の方法論を思いつき,その手法を適用した書『説弊』を18歳のときに出版したのだが,この本が儒教批判の書であるとして誤解されて絶版に追い込まれ,仲基自身も懐徳堂を破門されるというスキャンダラスな事態を招いた.
 『説弊』は版木も失われてしまったので今日には伝わっていないが,その概要は数年後に書かれた『翁の文』(架空の隠者の話を仲基が聴き書きしたというスタイルの小冊子)でその概要を推測することができる.要は,儒教・仏教・神道という当時の日本に流布していた宗教を取り上げ,独自の言語論にもとづいて経典の成り立ちを分析し, それらの古文書が成立した時代や社会とのかかわりを論じたものであったらしい.冷静な視点で読めば,20世紀のアメリカでベンジャミン・リー・ウォーフが提唱した『言語相対論仮説』の先駆けのような本だったと思うが,扱われた題材が宗教文献だったために、儒教批判だと誤解されてしまったのもやむを得ないことであった.
 仲基の主著はかれが32歳で夭折する前年に出版された『出定後語』.「出定」とは、”瞑想により現れる幻覚(定)から脱け出るという意味.つまり,お釈迦様が悟りを開いた後に書かれた経典を指す.仲基は,歴史的に経典を分析すると,新しい経典はより古い時代の経典が説くところと異なった新しい言説を追加しながら発展してきたと述べている.この「加上説」の原理は,荻生徂徠がすでに提唱した「勝上説」(後世の言説は以前の説を打破しようとして生まれる)を発展させたものだといえる.具体的には,まずヴェーダが先行し,それに対抗して六師外道が,それに対抗して釈迦のオリジナルな言説である小乗仏教が誕生,さらにそれに加上して大乗仏教が生まれたという分析である.

 仲基は,自身の言語論的分析手法を「三物五類」と名付けている.いわく「およそ言に類あり,世あり,人ある」.20世紀言語学におけるソシュールやコセリウの言語変化に関する理論を先取りしたものだということができるだろう.
 大乗仏教の経典が釈迦本人の教えではなく後世の所産だと断定したことによって『出定後語』は当時の仏教界から猛烈に攻撃されることになった.その一方で,本居宣長平田篤胤などの国学者は,仏教に比較して理論的な厚みのない神道を擁護しなけrばいけないという立場から,この本を不必要なまでに称賛している.篤胤などは,『出定笑語』と題するパロディまで書いているほどである.しかし,かれらは仲基が『翁の文』で神道も一緒に批判(相対化)していることまでは知らなかったらしい.
 そうしたスキャンダラスな宗教論争から脱却して,仲基の言語論的方法論のユニークさを再発見したのは,京都大学東洋史学者・内藤湖南だった.『先哲の学問』(ちくま学芸文庫)所収の講演記録『大阪の町人学者富永仲基』のなかで,湖南は「大阪の町人の家に生まれて,そうして日本で第一流の天才といってよい人は富永仲基であると思います」と絶賛している.残念ながら,しかし,湖南の解説も『出定後語』をベースにしているために,「三物五類」テーゼの他分野への応用可能性については触れていない.そのためか,今日でもなお,富永仲基はユニークな宗教史学者にすぎないという誤解はまだ解けていないように思われる.

 このエッセイでは,以降,ソシュールやコセリウの言説を参考にしながら,「三物五類」テーゼによるソフトウェア技術史上のさまざまな言説の移り変わりについての再検討を試みてみたい.