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東日本大震災・被災地3年目の夏〜定点観測の記録〜鎮魂の8月(1)

 “3・11”から2年5か月、折しもこの国で8月は、広島・長崎、御巣鷹、旧盆と、鎮魂の季節でもある。5年間で25兆円という復興予算の転用やバラマキが指摘されるなか、行政主導の復旧・復興計画は経済的な復興を最優先するあまり、地域社会を崩壊する方向に突き進んでいるように見える。ますます深化する少子高齢社会を見据えて、将来世代に何を手渡していくのか――。いまこそ議論を重ねるときではないか。

「千年に一度」「未曾有」は言い訳になるか

 確認のために記すのだが、「東日本大震災」とは、Wikipediaによると、2011年3月11日の午後2時46分過ぎ、宮城県牡鹿半島の東南東約130kmで発生した「東北地方太平洋沖地震」と、それに伴う巨大津波および、福島第1原発事故に伴う被害を指す、という。地震エネルギーの大きさを示すマグニチュードは9.0で、観測史上、国内最大規模とされる。
 死者・行方不明者は2万人、負傷者は6千人を超え、建築物の全半壊は約40万戸、停電800万戸、断水260万戸に達する。被災は北海道から神奈川県まで(翌日に連動して起こった長野県北部地震を含めると長野、新潟まで)広範に及んでいるが、死者・行方不明者の大半は最高40m超という巨大津波に因っている。
 そのような津波が襲来したのは、平安時代前期の貞観11年5月(ユリウス暦869年7月)の貞観地震(9世紀陸奥海溝地震とも)以来、11世紀ぶりという。津波は奥州鎮台というべき多賀城の間近に迫り、多くの人命と田畑を奪った。今回の震災が「千年に一度」「未曾有」と形容されるのはこのためだ。
 今回の地震津波が「千年に一度」「未曾有」だったのは間違いないとして、しかしそれが上記のような被害を生んだ言い訳になるだろうか。

仕事であれ私用であれ

 初めて被災地に入ったのは発災直後の2011年4月だった。郡山、仙台、いわきの被災現場を視察し、計5人にインタビューをした。道路は波打ち亀裂が入り、路肩は崩れていた。仙台市荒浜、いわき市豊間の茫漠とした景色を忘れることはないだろう。その年の5月には私用でいわき市経由で新潟県五泉市に向かう途中、三春町の仮設住宅を目撃した。
 昨年の4月はいわき市から川内村に入り、田村市郡山市を経て柏崎市に抜けた。原発にできるだけ接近するのがテーマだった。6月には芭蕉曾良奥の細道)の足跡を訪ねつつ、多賀城塩竃、松島、石巻登米に立ち寄った。
 7月の末、IT記者会の有志と一緒に、仙台市の荒浜地区から三陸海岸をレンタカーで北上した。仙台駅で落ち合い、石巻南三陸町気仙沼陸前高田市まで、2泊3日で視察する。復興の手伝いをすることはできないが、見たまま・聞いたままをレポートするのも、報道に従事している者の役割だろう。
 その2か月ほど前、福島県いわき市小名浜港から波立までを遊覧した。ご近所付き合いをしていた老夫婦がいわき市に“終の棲家”を求めて移住した。一昨年は震災で中止、昨年は筆者の都合で断念した経緯がある。「遊びにいきますよ」の約束を、3年ぶりに果たしたことになる。
 仕事であれ私用であれ、被災地を行けば震災の傷跡と復旧・復興の様子を否応なく目にすることになる。

津波がなければ、は繰言
 避難者はピーク時に40万人以上だったが、2年以上経った現在も約30万人が仮住まいを続けている(復興庁:今年6月6日現在)。親戚や知人を頼り、あるいは民間の賃貸住居という人もいるが、多くが仮設住宅の劣悪な住環境を強いられているというのは、いったいどういうことだろうか。
 約30万人の半分は、津波被災地の復旧・復興が大幅に遅れているため、半分は地震津波の被害に加えて福島第一原発事故放射能漏れが重なっている。すなわち福島県浜通りの2市7町3村(飯舘町、南相馬市、川俣村、葛尾村田村市浪江町双葉町大熊町富岡町楢葉町広野町川内村)は射能汚染の被害も受けているので、その復旧・復興を他の地域と同一に論じることはできない。
 福島第一原発は高レベルの放射能放出に歯止めがかからず、海洋への汚染水漏れが続く。放射能に汚染された瓦礫や除染作業で排出された土壌の中間貯蔵地も決まらず、使用済み核燃料の処理方法も解決していない。冷温停止状態の維持を以って“収束”とするのはあまりの強弁で、実態は絶望的というのが正しい。
 地震が天災である以上、「津波がなければ」は繰言に過ぎないが、放射能漏れは人智の範疇だ。原発事故が震災の一つだとしても、炉心溶融、水素爆発、放射能漏れを地震に帰結させることに、抵抗を感じる人は少なくあるまい。鎮魂の8月、被災地の復旧・復興を考えること、避難者の苦難を想うことが、将来の世代に何を手渡すかを考えるきっかけになる。