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東日本大震災・被災地3年目の夏〜定点観測の記録・小名浜〜(2)

 東日本大震災から2年4か月。大津波の映像はまだ記憶に新しいが、被災地の人々のことは多忙な日常の中で忘れがちになっていはしないか。テレビや新聞などではしばしば、被災地の復旧・復興の遅れが報道されているが、個々の細かな状況はあまり伝わってこない。何度でも自分の足で現地の土を踏み、自分の目と耳で、何が起こっているのか・起こっていないのかを確かめる必要があるのだろう。5月に私用で訪れた福島県いわき市小名浜港〜豊間/四倉地区と、今回の「被災地3年目の夏」視察ツアーで訪れた仙台市荒浜地区〜陸前高田市の見聞録をまとめる。

発災45日目の状況

 小名浜港を訪れたのは今年の5月20日。震災の1年前、ご近所付き合いをしていたA氏がいわき市に“終の棲家”を求め、ご夫婦で移住した。「遊びに行きますよ」の約束が震災で延期になり、昨年は筆者の事情で行くことができなかった。3年越しの約束を果たしたわけだった。
 前日はひたちなか市にある海浜公園〜いわき市豊間地区を経て、福島県唯一の国宝「白水阿弥陀堂」を見学、翌日は小名浜港〜塩屋岬〜四倉というコースをご夫婦の車で行く。物見遊山とはいえ、結果として震災からの“その後”を目にすることになった。
 小名浜港は江戸時代、磐城平藩の年貢米積出湊として栄え、近代にいたっては常磐地方に産出する石炭が加わった。現在は火力発電所用の燃料や周辺工場群の原材料の輸入、南東北地域の海上物流拠点に位置づけられている。また小名浜魚市場に水揚げされる魚介物は「常磐物」と呼ばれ、東日本大震災では、港湾施設や臨海鉄道が被災した。
 IT記者会有志による被災地視察取材チームがいわき市に入ったのは、2011年の4月25日だった。福島第1原発から直線距離で35km、震災に福島県最大の都市はどのように向き合ったのか―を見聞し、その帰路、小名浜港に立ち寄る予定を立てていた。
 このとき地元の情報サービス会社、不動産業組合、市役所、商店街など、行く先々で耳にしたのは、「まだ危ないから行かないほうがいい」だった。街全体がヘドロで覆われていて、手が着いていない。それに道路が崩れて通行止めになっている、という。発災45日目の時点で、小名浜港はそのような状態だった。

不安だったのは原発事故

 ――畑を借りてましてね。そこで家庭菜園を始めたんです。
 地震発生時に何をやっていたか、と尋ねると、A氏は言った。
 ――苗床づくりをしていて立ち上がったとき、クラッとした。あれッ、どうしちゃったんだろう、目眩かな? って思って周りを見たら、林がザワザワ揺れてるし、足元が波打っている。あ、これは地震だ、と。
 奥さんにも、お住まいのマンションにも被害はなかった。停電でテレビが映らなくなった。何が起こっているのか分からなかったが、東京や横浜の旧知がかけてくるお見舞いの電話で沿岸部が大きな被害を受けていることを知った。数日のうちに米を除く食料品が底をつき、さつま揚げ一枚だけでご飯を食べたこともあった。
 ――ガソリンや灯油が手に入らない、というんで、それは避難所の人たちや救援の人たちに使ってもらおう、わたしら年寄りは大人しくしていよう、と。
 海の孤島じゃないのだから、必ず救援がくると定めて外出を控えた。不安だったのはやはり原発事故だった。自分たちは高齢で、どこかに逃げていくこともできないけれど、若い人たち放射能を恐がるのは無理もない。目に見えないだけに、不安が一層高じていく。子どもが外で遊ぶ姿を見なくなった。そうこうするうち周りが落ち着いてきたので、趣味のカメラで被災地を撮って回った。車の中でそういう話をした。
 市の中心街からバイパスを南下して小一時間、小さなトンネルを抜けると車窓の景色が一変した。フロントガラスの正面、三叉路の向こうに「よみがえれ私達の海」と書かれた白い看板が見える。その後ろのビルには「市営小名浜漁市場」の文字が打たれている。
 さあ、小名浜港に着いた。

取扱い貨物量は回復

 車が赤信号で止まったので、周りの景色を眺めるのに十分な時間があった。道路にも魚市場の建物にも亀裂は見られない。津波で陸上に打ち上げられた漁船や輸送船は、すっかり片付けられていた。だが、赤茶けた空き地が広がっている。地震津波で崩壊した倉庫や商店が撤去された跡に違いない。
 ――ここはね、地震津波より液状化の被害が大きかったそうです。
 とA氏が言う。
 いわき市役所や小名浜港湾事務所が公表している発災直後の被災写真を見ると、港湾の路面が歪み、あるいは亀裂が走り、舗装タイルが割れている。地盤が沈下したためで、ほとんどの埠頭で、コンクリート壁の内部が崩壊する“はらみ”という現象が発生していたことが分かる。くわえて激しい揺れや大型船舶の衝突などでコンテナヤードや燃料タンクが倒壊し、港湾の機能は完全に失われた。
 仙台港と並ぶ東北地方の重要物流拠点だけに、復旧のスピードは速かった。他の被災地と比べ、放射能汚染の問題もなかったし、土地地権者の確定・土地利用計画の合意形成という手続きも不要だった。さらに高さ10m超の防潮堤を云々する必要がなく、復旧計画を策定・推進した主体が国土交通省だったこと、復旧のゴールが明確だったことなどが、小名浜港にとっては幸いした。
 発災直後から沈下した埠頭の嵩上げ作業と最大水深18mの浚渫工事が始まった。津波が運んできたヘドロを排除し、大型輸送船の接岸を可能にするのである。併せてコンテナヤードや燃料タンクなどの再建が進められた。外国籍の大型輸送船が接岸したのは、発災から3か月後だった。
 港湾機能の復旧を如実に物語るのは取扱い貨物量である。福島県土木部港湾課によると、2011年上半期(1〜6月)の取扱貨物量は410万tで前年同期比37.4%減と大きく落ち込んだ。約4割減に留まったのは、小名浜港が被災地への救援物資受入れ拠点として機能したことを示す。
 これに対して2012年上半期の取扱量は894万tで、対前年同期比2.2倍に急増、2008年並みに回復した。ただコンテナ取扱量は2,969TEU(Twenty−foot Equivalant Unit:20フィートコンテナ換算)で、2011年上期比11.3%減、2010年同期比は57.0%減だった。主な要因は外貿定期コンテナ航路が休止したためという(2012年4月に再開している)。

物産センター2階で震災展

 車を寄せたのは、1号埠頭のいわき市観光物産センター「ら・ら・ミュウ」だった。ゴールデンウィーク後の平日、しかも午前9時過ぎということもあって、客足は閑散としていた。ここにも津波が押し寄せてきたはずだが、その痕跡は全くなく、館内は通常に営業していた。
 後日、調べると、同センターのホームページには、《1階は、床上2m7cmの津波によりすべて瓦礫と化し、建物周辺も想像を絶する光景でした。一部の社員は、何度も押し寄せる津波の恐怖に怯えながら、この建物内で朝を迎えました》とある。
物産センターで販売しているのは、地元産の魚介加工品のほか、携帯電話のストラップや貝を使った置物、いわきの名菓「じゃんがら」、地酒「又兵衛」など。さらに1階と2階に飲食店が入っている。震災というトピックがなければ、どこにでもある観光土産販売所といっていい。
 朝食を済ませて2時間も経っていない。しかし“せっかくだから”と2階へ上がって行くと、「3.11いわきの東日本大震災展」という表示が目に飛び込んできた。ポスターには、《2011.3.11/あの時、何が起き/今、何ができるのかを考える/忘れたいこと/忘れられないこと/忘れてはいけないこと……/【期間】2/8(金)〜8/31(土)/【時間】午前9時〜午後6時/【会場】2階ライブいわきミュウじあむ/【主催】いわき観光共同キャンペーン実行委員会》とある。
展示は記録写真が中心だった。発災直後の津波の様子や救援活動、避難生活を伝える写真がパネル展示されている。地域は小名浜港に限らず、豊間、塩屋、四倉といった沿岸部、市街地など広い範囲をカバーしている。
 発災から丸2年が経過してこのような展示を行うのは、市民の記憶が風化するのを食い止めようとするのがねらいなのか、あるいは被災者の気持ちがやっと展示を受け入れるまで落ち着いたということなのか。
 太平洋沿岸部が津波で被災したばかりでなく、いわき市には原発被災地からの避難者約2万4千人が押しかけた。小雪が舞うなか、市役所に隣接する平中央公園で多くの人が野営せざるを得ない状況に追い込まれたとき、同市の市長・職員と不動産業組合が相談して、一年間の期間限定で市内賃貸物件を提供することで合意したという。避難者を屋外で野営させるのを回避したのだ。さらに同市は市内にある工場の敷地に、広野町の仮庁舎を設営してもいる。
 当初は市民と原発避難者の関係はきわめて良好だった。ところが発災から3年目、市役所など市内四か所に黒いスプレーで「被災者帰れ」の落書きが出来するなど、原発避難者と震災被災者、被災しなかった市民の温度差と、積みあがっていたぎくしゃくが表面化した。
 「あくまでも地元の新聞報道ですけれどね」と前置きして、A氏は説明する。
 ――原発の避難者が何度も病院に行くものだから、いわきの市民が困ったり。東電からの補償金で家を新築しながら住民票をいわき市に移さない人がいたり。いわき市津波被害者と補償や補助に大きな差があるのも、いがみ合いの一因じゃないでしょうか。一般市民は一生懸命働いてるのに、原発の避難者は補償金で遊んでいるように見た人がいたとしても不思議はありません。いわきの人たちの僻みもあるのかもしれないし、目に余る事実もあったんでしょう。でも本質は、東電と自治体に責任を押し付けて、具体的な指針を示さず、口だけ出す国の無責任さが原因なんですよ。
 そのような中での「東日本大震災展」に対して、市民は複雑な思いを抱いたに違いない。