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中央の儀

 「中央の儀」と呼ばれる政治的意思決定システムが足利時代に確立されたということを,何年か前に,歴史学者笠松宏至さんの著書『法と言葉の中世史』(平凡社ライブラリ)で教えられた.
ここで「中央」とは「真ん中」を意味するのではなく,「香炉を乗せる台」を指す.広辞苑にもその定義が載っている.香炉とは足利将軍(室町殿)である.すなわち,「中央の儀」とは,本来の決定権者たる室町殿が関与しないかたち,というよりむしろ意識的に桟敷に祭り上げられ,管領・侍所・所司代等々の官僚グループが合議して下した決定を「上意」の名のもとに他に強制することを意味する.
 それ以後,この国の政治体制は,この「中央の儀」システムを,ほとんど慣例として受け継いできた.徳川幕府も明治以降の現在までの政権も,おおむねその伝統にしたがってきたように思われる.

 このシステムでのポイントは「中央」の上に乗る「香炉」が自分の意思で行動しないことである.自らの意思で発言し行動する香炉は邪魔なので,いずれ「中央」によって排除されてしまう.田中角栄首相の失脚がその例であり,最近では小沢一郎議員や佐藤福島県知事の冤罪事件が記憶に新しい.新潟の泉田知事は大丈夫なのだろうか.
 先日のIOC総会における安倍首相その他の面々のプレゼンも,「中央」が書いたシナリオ通りに踊りを踊っただけなのだと考えられる.オリンピック招致の成功は,かつての真珠湾攻撃を想起させるできごとであった.
 しかし.これからどうなるだろうか.
 フクシマ原発事故という巨大な敵を相手にしたミッドウェイやガダルカナルが待ち受けている.秘密保護法で国民の口を封じたとしても,世界の目をごまかし続けることはできないだろう.しかし,もともと中世の政治システムでしかない「中央の儀」が,この国でいまでも生き続けている理由は何だろうか.ひとつには,近代社会を成り立たせている「個人」の概念が日本ではまだ十分に確立されていないという状況があるからだと考えられる.

 薩長の下級武士グループを中心に実行された明治維新では,革命成功後の国家統治体制として西欧流の近代化が目標に設定された.Society という英語に対する「社会」という訳語もその時に作られたようである.残念ながら,そのさい,「社会」を構成する基本要素である「個人」の重要性は無視されてしまった,西欧諸国において「個人」の確立には何百年かの時間を必要だったのだが,明治の日本にはその余裕はなかった.やむなく「個人」を無視して,「万世一系」という虚構のストーリーを創作し,その象徴としての天皇を頂点とする家族制度の体系を社会システムの基盤とするという方便をとらざるを得なかったのである.明治憲法教育勅語を見ればそのことは明らかであろう.
 第2次大戦が日本の敗北に終わり,占領統治を担当したアメリカが採用した戦略は,とりあえず「民主化」というかたちだけの目標を設定した上で,天皇を象徴的な中心とする社会システムの枠組みは変えないほうが便利だということだったようだ.こうして,アメリカの意向を何よりも尊重する官僚システムが依然として「中央」としてのポジションを今日まで保ち続けているのである.

 周囲を見回してみると,この「中央の儀」システムは,行政機関のみならず、一般の企業でも,その構成メンバーにおける「個人」の意識が弱いところではよく見かけられるようである.ソフトウェア・プロジェクトにおいても,特に開発規模が大規模な場合には,リーダーは単にお飾りとしての「香炉」としてしか扱われていないことが多い.
 そうした状況を変えるにはどうしたらよいか.その問題を考える上で,アイ・ウェイウェイ(現代中国の反体制アーティスト)が,最近のインタビューの中で語っているコトバがひとつの参参考になるだろう.
 ――社会を変える原動力は個人だ.集団や政党ではない.集団や政党は個人が選択するものだ.昔は違った.昔は組織がなければならなかった.この国で共産党が勝てたのも組織があったからだ.農民を組織し,さまざまな矛盾点を組織し,これらの矛盾を利用して勝ったのだ.しかし,現在われわれは異なるゲームをプレイしているのだ.グローバル化やインターネット.特にインターネットは非常に重要だ.それは個人をかなり強くさせた.個人に充分な自信を与え,資源や発言のためのルートをもたらした.これは将来の世界を変える最も重要な要素だと思う.中国にせよ,アメリカや日本にせよ,どこでも,個人の力が強くて,個人の自由が保護されている組織こそ,個人の権利が強くなって,強大な競争力を持つのだ.そうに決まっている.

                         ART iT News (2013/12/11)