ひたすら抽象絵画の制作にのめりこんでいた学生時代,専攻の理論物理学の勉強はほとんど放棄したのだが,1冊だけまじめに最後まで読み通した専門書(といっても難しい数式はパスした)があった:デヴィッド・ボームの『量子論』.いまもわたしの本棚の隅に眠っている.
晩年,ニューサイエンスの領域に重点を移したボームの姿勢については,毀誉褒貶さまざまだが,物理学者らしからぬ反アトミズムの考えを展開した『全体性と内臓秩序』(青土社)は興味深い本だと思う.ソフトウェア・システムをコンポーネントに分解して理解するというアプローチの限界を意味するものだと比喩的に解釈できるだろう.
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の冒頭で示した「世界はモノの集まりではない.成立している事柄の総体である」というテーゼに一脈通じるニュアンスを含んでいる.オブジェクト指向技法の信奉者たちに欠けているのは,そうした「全体性」への配慮ではないかとわたしは感じているのだが,どうだろうか.
理論物理学からちょっと外れたボームの晩年の仕事は,コミュニケーション理論に関するものであった.その仕事の成果は7篇の短いエッセイを集めた『ダイアローグ』(英治出版)という本にまとめられている.「対話の目的は,物事の分析ではなく,議論に勝つことでも意見を交換することでもない.いわば,あなたの意見を目の前に掲げて,それを見ることなのである」というボームの提案は,開発プロジェクトの過程でさまざまなコミュニケーション問題に直面するソフトウェア・エンジニアやマネージャにとって,きわめて有用なアドバイスだと思われる.
20世紀ロシアが生んだ最高の思想家といわれるミハイル・バフチンは,ドストエフスキー文学の特徴を人類史上初めての「対話型小説」だというユニークな解釈を展開している.セリカ書房から出版された論集『ミハイル・バフチンの時空』(1997) の巻頭に収められたインタビューで,かれは次のように述べている:
――世界の究極の問題である真理は,単独の個人的意識の中では解明できないと,ドストエフスキーは考えていました.真理は,1つの意識には収まりきれないのです.真理は常に部分的にですが,多くの対等の意識が対話的に交流する過程の中で解明されてゆきます.究極の問題をめぐるこの対話は,真理について考え,真理を求める人類は存在する限り,終わることも,完結することもありません.(中略)わたしの意見では,ドストエフスキーは,ポリフォニックで多声的な小説,つまり,究極の問題をめぐる緊迫した激しい対話として組織された小説の創始者です.作者はこの対話を完結させたり,作者らしい自分の結論を提示したりはしません.かれは,相容れることのない,終わりなき生成過程の中で,人類の思考を解明しようとしているのです.ドストエフスキーは,いかなるものであれ,完結というものを認めませんでした.たとえ、いくつかの小説(たとえば『罪と罰』)が完結しているようであっても,それはただ、形式的文学的な完結にすぎません.また,『カラマーゾフの兄弟』はまったく完結していません.そこでは,あらゆる問題が未解決のまま残り,一定の結論を仄めかすものは何もありません.(中略)特別な基本的思想を何か1つ選び出せるかどうかということは問題になりません.大切なのは,異なる人間によって具体化された思想が複数存在することなのです.大切なのはこの対話,明らかに完結されない対話なのです.
対話とその未完結性に関するバフチンのこの指摘は,ソフトウェア工学の諸問題やプロジェクト・マネジメントのあり方を考えるさいにも有益な示唆を含んでいる.あらゆるプロジェクトは,所定のタイムリミットが来れば形式的には完結するが,それまでの過程で提起され議論されてきたいくつかの問題の結論は未解決のまま残される.それぞれのメンバーは、そうしたオープンな問題意識を次のプロジェクトへと持ち越してゆくのである.そうした多声的プロジェクト運営を心がけることが、ソフトウェア技術の絶えざる発展のために重要なことなのであろう.