IT記者会Report

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カーニヴァルとフリー・ソフトウェア

 ドストエフスキー文学の本質が永遠の真理をめぐる未完結の対話を描いたものだと見抜いたのは,たしかにミハイル・バフチン(1895〜1975)の慧眼であった.かれが,レーニンやトロツキーあるいはスターリンをさしおいて20世紀ロシアが生んだ最高の思想家だと評価されているのも当然だろう.

 バフチンは,もうひとつ優れた業績を残した.16世紀フランス・ルネッサンスを代表する作家フランソア・ラブレーの再評価である.中世の巨人伝説に題材をとった騎士道物語のパロデイ『ガルガンチュアとパンタグリエル』は,それまで下品で卑猥なジョークを散りばめた長たらしいゴシック小説としてしか読まれていなかったのだが,バフチンはそこに,多様な解釈を内包する「カーニヴァル」のメタファを発見したのであった.

 カーニヴァル(祝祭)は,いまでは,音楽や芝居の舞台,そして見世物小屋やさまざまな屋台などを広場に配置して,いわゆる縁日に大げさな化粧を施したようなイベントになってしまっているが,中世のそれはまったく異質なものだったとバフチンは指摘する.

 現在,たとえば夏になると毎年あちこちで開催される音楽フェスティヴァルの例でいえば,その中心には立派な音響装置やときには映像スクリーンまで備えた舞台があり,たくさんの若者がそれを取り巻いて演奏に熱狂するというのがおきまりのスタイルである.何年か前に,アメリカ西部の観光都市の野外劇場でオペラの公演に招待されたことがある.こちらは,やや年配の観客たちが桟敷席でワインを飲みながら優雅にひとときを過ごすというスタイルだったが,枠組みは同じだといえよう.

 しかし,バフチンによれば,ラブレーの小説に描かれた中世のカーニヴァルには,演技者と観客の区別は存在しなかった.つまり,舞台を照らすフットライトがなかったのである.フットライトがあれば,カーニヴァルはぶち壊しになるだろう.逆に,フットライトをなくせば,演劇はぶち壊しになってしまう.中世の民衆にとって,カーニヴァルは観るものではなかった.そのなかで生きるものであって,演技者も観客も含めてすべての人がそこで生きていた.カーニヴァルが行われているあいだは,誰にとっても,カーニヴァル以外の生活は存在しなかった.ある期間,日常の全生活と置き換わるようなイベントとして,カーニヴァルというものが存在していたのである.

 この「フットライトの消滅」を特徴とするカーニヴァルは,フリー・ソフトウェアあるいはオープンソースの開発コミュニティの本質をあらわすのにふさわしいメタファのように思われる.そうしたソフトウェア・システム開発・進化して行くプロセスを眺めてみると,まず,オリジナルなアイデアを持つプログラマの手でシステムの最初のバージョンが世の中(インターネット上)に送りだされる.それに興味を抱き使い始めたユーザたちの何人かがバグレポートを送ったり新しい機能を追加したりといったかたちで開発支援チーム(あるいはコミュニティ)を形成する.時間の経過とともにユーザ・グループはさらに大きくなり,そのなかから開発支援に参加するメンバーもふえてくる.そこでは,カーニヴァルと同じように開発者とユーザとを隔てる壁が消滅し,ソフトウェアはそのコミュニティと並行しながら進化して行くのである.

 リチャード・ストールマンが1983年9月に GNU プロジェクトの宣言を USENET 上で発表してから今年で30周年の節目を迎える.GNULINUXに代表されるフリー・ソフトウェアやオープンソースの今後がどうなるか.現実のビジネスの世界におけるプロプリライエタリ・ソフトウェアとのせめぎ合いの行方はまだわからない.ミハイル・バフチンは,わたしたちの未来について次のように述べている:

 ――世界には,最終的なことはまだ何ひとつ起こっておらず,世界についての最終的なコトバはまだ語られていない.世界は開かれていて自由である.一切はまだこれからであり,つねに前方にある.