IT記者会Report

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ダイアローグ(対話)について

 対話において,だれかが何かを発言した場合,相手が話し手の予想通りには反応しないのがふつうである.ふたりが使うコトバの意味は,表面上似ているように見えて,実は同じではない.そのことに両者が気づき,そしてお互いに自分の最初の考えに固執しないという自由な心を持っている場合,当初のすれ違いからスタートして続けられる対話は,新しい意味の創造へと向かうことを可能にする.
 「対話(Dialogue)」という単語の語源はギリシャ語の Dialogosだという.すなわち logos (コトバ)を通じて(dia)行われる人間の営みを意味している.それは,別に2人の人間のあいだでのコトバのやりとりだけを指すわけではない.ひとは,コトバを通じて自分自身との対話を行うこともできる.それが,いわゆる思考プロセスの自然な姿であろう.芸術家が作品を創造するプロセスは,自分自身との対話を通じて行う行為の典型的な例だと考えられる.芸術の鑑賞者もまた,美術館やギャラリーに並べられた作品を媒介として,自分自身と対話している.同じように,科学者たちもまた,さまざまな理論や道具を使って自然との対話を行ってきたのであった.

 「対話」とよく似た人間の行為である「討論」(Discussion) について,デヴィッド・ボームは次のように述べている:

  Discussion という単語は,Percussion (打楽器) や脳震盪 (Concussion) と語源が同じである.それには,「ものごとを壊す」という意味がある.「討論」においては,「分析」という考え方が重視される.討論の参加者はさまざまな相異なる視点を提供し,ものごとを解体し分析するのである.そうした行為に価値がないわけではないが,一定の限界があって,多様な視点を認識するという段階から先へ進むことは難しい.「討論」はいわばピンポンのようなものであり、そのゲームの目的は,自分のためにポイントを上げ,勝つことなのである.他人の意見やアイデアを取り入れるという場合もあるだろうが,それはあくまでゲームの勝利のためでしかない.

 「対話」はそれとは違うとボームはいう.もし誰かが勝ったとすれば,全員が勝ったことになる.いわば,ボームのいう「対話」とは参加者全員が協同して勝利を目指すようなゲームだといえよう.ボームの著書『ダイアローグ』の日本語訳に「対立から共生へ,議論から対話へ」というサブタイトルがつけられているのはそうした意味合いからなのであろう.

 現実には、ボーム流の「対話」を実現することはなかなか難しい.世の中で行われている「対話」のほとんどは,一緒に協力して新しいアイデアを作り出そうというよりは,いかにして相手を言い負かして自分の主張を認めさせるかを目的とする「討論」でしかない.
 そのことは,最近話題になっている2つの「島」の帰属をめぐる一連の外交上の「対話」を見れば明らかであろう.それぞれの国の政府は,自国にとって有利と思われる事実を前提として振りかざし,相手方が持ち出した前提を決して認めようとはしない.それらの前提はすべて,たかだか200年程度の歴史しかない近代国民国家の成立に関係したものでしかなく,地球という星全体の海洋環境を今後どうやって保全して行くかという長期的視野に立って考えればとるに足りないものなのだが,近視眼的思考の持ち主である政治家たちにはそのことがわからないようである.
 ボームの著書は,アメリカ流のプロセス志向心理学を推進する人たちのあいだでかなり人気が高いようで,それにもとづいた「学習する組織」についてのセミナーなども行われていたりする.しかし,わたしはそうした風潮にはいささか違和感を覚えているのであまり近づきたくない.

 『全体性と内臓秩序』そして『ダイアローグ』というボームの著書2冊を読んで,わたしがすぐに考えたのは,ソフトウエアの開発・進化のプロセスにおいて,それに関係する人びとのあいだで行われる「対話」のあり方についてであった.もちろん、そこにはプロジェクト・マネジメントの問題も関係するが,それにとどまらず,開発対象のソフトウェア・システムをめぐって(というかそれを媒介として)さまざまな技術,管理,あるいは社会環境について,関係する技術者や管理者あるいはユーザのあいだの「対話」をどのように行うのがよいのか,そのための仕掛けやツールは何かということである.
 ミハイル・バフチンドストエフスキー文学の研究成果として提起した「対話の非完結性」という概念が重要な指導原理であることはたしかだが,それをどのように具体化したらよいのかが,まだ見えてこない.
 芸術家が作品を通して自分との対話を続けて行くのと同じように,エンジニアは開発対象のシステムを通じて,マネージャは担当プロジェクトを通じて,それぞれ自分自身との対話を行っている.そのとき,特定のシステムをどう作るべきか,プロジェクトをどうやって成功させるか,といったことがらは,本質的な問題ではないような気がする.そうした個別的な例題を通じて本当に考えるべきことが別に存在するのだという視点が必要とされるのではないだろうか.