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ソフトウェアとコトバ(6)

 言語はなぜ全面的に変化しないのか? なぜ古い言語を土台として再形成されるのか? 話し手はなぜ自分の考えを表現する言語を新しく発明しないのか? 
 「こういった問題を理解するには,人間の歴史が言語活動の歴史と合致しているという事実を了解する必要がある」
 とエウジェニオ・コセリウはいう.
 「話し手は,その表現のために特に別の技術を利用するのではなく,かれが属するコミュニティから与えられたシステムを利用し,そこに蓄積された規範が提示する表現形式を受け入れて行動する.なぜなら,そのことが言語というものの伝統だからである.かれは,自己の表現をまったく新たに発明するのではなく,歴史的な個人という立場に立って既存のモデルを利用する.それ以外のやり方を用いることはない.」
 言語の主要な機能である対話において,何らかの意味を伝えたいと考えている話し手の意識は,その表現を解釈する聞き手の意識を予想している.つまり,自分が提示した記号が相手に受け入れられ理解されるだろうという想定である.そのための共通の歴史的基盤として,言語というシステムが存在する.

 しかしながら,思考や対話において(ひとつの)言語を使わなければならないという事実は,決してわれわれの自由を束縛するものではない.むしろ,表現の自由を歴史的に実現する道具として,言語が必要とされているのである.ひとが自由に使用できる道具は牢獄でもまた鎖でもない.
 われわれが何かを話す(発話)という言語活動の行為を考えてみよう.時の流れから見ると,発話という行為より前に,システムとしての言語は歴史的な積み重ねによってすでに成立しており,発話の道具として提供されている.しかし,観念的な視点に立てば,発話行為を行おうとするわれわれの意思がまずあり,次にそのための道具としての言語を意識するというのが正しい順序である.自由な行為としての発話は,表現上の制約条件としての言語を越えたかたちで発生する.

 発話の内容はほとんど無限のバラエティを含んでいる.しかし,表現の道具としての言語システム(辞書や文法規則,例文など)は,それを文書にまとめれば,所詮有限なページ数にしかならない.すなわち,発話(パロール)は,最初から言語(ラング)の枠からはみ出てしまっているのである.何かをいおうとして,自分の考えがうまくコトバにできないといういらいらした状況は,だれもが少なからず経験しているはずである.
 言語の変化は,そうした状況をスプリング・ボードとして発生する.話し手は,自分が表現したいと考えている内容に合わせて,既存の辞書にある定義とは異なる意味で単語を使用したり,これまでの伝統にはなかったレトリックを用いたりする.一方,聞き手のほうもまた,話し手が行った言語の変化に対応して,自分が聞いたことに対する解釈を新たに考えなおす.このようにして,コミュニケーション・プロセスにおける変化が実現され,言語というシステムは継続的に形成されて行くのである.ソシュール言語学における共時態と通時態の区分から生じる悩ましい矛盾(二律背反)の原因はこのあたりにあると考えられる.

 発話の内容と既存の言語との差異という問題をもっとも鋭く感じてきたのは詩人たちであった.なぜなら,通俗的なメッセージ・ポエムを除いて,詩という芸術ジャンルの目的は所与の言語システムで定義されたコトバの意味を剥ぎ取り,新しい世界を創り出すことだからである.
 たとえば,松尾芭蕉が詠んだと伝えられる有名な発句:
  蝶鳥の知らぬ花あり秋の空
 を考えてみよう.
 井筒俊彦が指摘したように,何かの単語を発したとき,われわれの心の中にはそのコトバが何を意味するのかのイメージがすでに存在している(『意識と本質』,岩波文庫).「花」という単語から想起されるのは,先日の花見で眺めた桜の花そのほかこれまでに自分が見た花々のイメージである.しかし,芭蕉の発句における「花」はそうした花ではない.「蝶や鳥がこれまでにまだ見たことがない」という形容句からして,それは青空に浮かぶ雲が何かの花を思い出させるという意味ではありえない.目の前に広がる秋の空の奥に潜む想像上の花、あるいはその青い空全体がひとつの大きな花だと詩人は感じたのであろう.このようにして「花」というコトバの意味が拡大される.詩という文学形式がわれわれの心に与える衝撃がそのあたりにある.

 言語活動の歴史性に関するコセリウの指摘は,アメリカの哲学者ネルソン・グッドマンの主著『世界制作の方法』における記述のトーンといくらか似通っている.次は,そのことについて考えてみたい.