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大洪水の中欧、驚きのショート・トリップ 現代史の痕跡を訪ねて(3)

 ドレスデンをあとにフランクフルトへ、まことに結構な欧州列車の旅だった。ドイツ新幹線ICEだ。車窓の景色は、まだ実際に行ったことはないが、北海道の美瑛を思わせるような、緑の丘と森や林が連なる景色。一面黄色の花で覆われている丘もあった。ただし、出会う川は全部溢れていた。家々が点在するのだが、皆、赤や橙色の急傾斜の瓦屋根で、実に風光にマッチしていた。


[緑の中の欧州列車の旅、フランクフルトへ]

 その中で気になったのが、線路端に実に多くの煉瓦の廃屋が認められたことである。これはプラハから、ドイツに入ってもずっと続いた。特に高い煉瓦の煙突のある建物が各駅の近くで転々と放置されていた。おそらく社会主義時代の工場などの産業施設、鉄道関係施設であろう。解体の手間すら省かれて、まさにうち捨てられていた。とくにドレスデンの隣のライプチッヒ周辺では古い鉄道施設の廃屋と合わせてひどい感じだった。
 フランクフルトに近づくと民家の屋根の上のソーラーパネルが気になり出す。美しいドイツ風景のぶちこわしである。瓦型のカラーソーラーパネルでも発明してくれないと、これでは景観への暴力だ。

[現代資本主義社会のコントラスト、フランクフルト]

 フランクフルト、ここは以前来たことがあり、ちょっとした想い出の地だ。今回は夕方着いて、次の朝には出発する短い滞在、というよりもあえて一泊して、中央駅の周りだけでも見物しようと考えた。宿は駅横の旧来のホテル街。巨大な中央駅は改装工事中、伝統的な終端型だがさすがに巨大だ。駅前、どうしようもなく汚い。ありとあらゆる国の、様々な立場の人々が行き交っているように見える。正面奥にあの欧州中央銀行、そしてコンメルツ銀行などのタワービル群が聳えている。まだまだ建設中のタワーもある。中央銀行ビルまで行ってきた。巨大なユーロマークの看板に1カ所投石の傷の穴があった。ここは現代史の痕跡ではなく、今歴史を刻みつつあるメインプレーヤである。
 夕方、足下の道路はすでに日が沈んでいるのに銀行ビルは夕日に輝いていた。通りを囲むビルは旧来の欧州様式、その路面の店舗がカオスだ。駅前表通りなのにXXXショップが大手をふっている。レストランも各国様式。インド、ベトナム、日本式を含んだ中華、メキシコ、もちろんドイツ式、米国スタイルも。高級感は全くない。その中を不似合いなビジネススーツが行き交う。路上のオープンカフェにもスーツ組がいっぱい。見上げれば、この地は彼らの世界であることがわかる。米国は1%と99%の国だそうだが、この通りを歩けば、欧州も全く同じということが物理的に感じられる。カイザーストラーセ、ワンポイントで世界を概観するのに最も適した通り、のような気がした。夕方の路上レストランで中央銀行ビルを仰ぎ見ながらシュニッツェルをつまみにビールを飲んで、ちょっとだけ世界を見た気持ちになった。
 駅横のホテル、着いて夕方入ったときはカウンターでは中国人風のアジア人男性が流暢な英語で対応してくれた。翌朝降りて来たらカウンターにはベールを被ったアラブ系のおばさん、朝食に食堂に入ったら、やはりベールのお姉さんと、ドイツ人風のもう少し若いお嬢さんがサービスしてくれた。なるほど、これが国際都市か。
ここも中央のマイン川の水位が高いようだったが影響は見えなかった。当地は内陸水運の重要拠点だ。

[戦災復興の街カイザースラウテルン

 カイザースラウテルン、フランクフルト中央駅からICEでひとっ走り。ここのフラウンホーファ財団、実験的ソフトウェア工学研究所(IESE)で所長のDieter Rombach博士(カイザースラウテルン大学教授)の60歳の誕生日のお祝いがあり、これに参加するのが今回の旅の目的と言うか口実だった。フランクフルトからの途中、やはり川は溢れ気味だったが、市街までは影響がなかった。
 この街は空襲からの復興の街。欧州の臍といわれる要衝にあり、戦後4万人の米軍が駐留した。沖縄と二分して世界に睨みをきかせている。がれきの廃墟から基地経済をトリガに復興したが、今やハイテク研究都市だ。旧市街は戦前の街の面影を再現・復旧している。そのはずれの博物館で痕跡となる写真を見た。展示品は空襲消火用のバケツとポンプにガスマスク。空しい遺品である。展示写真の中に日本の多くの都市とおなじ風景があった。がれきの中、米国進駐軍による新しい文化の浸透である。
 博士の誕生会はいわゆる還暦パーティではなく、関係する要人による連続講演会だった。2人の招待米国人以外は英語への同時通訳付きのドイツ語で運営された。英語講演のドイツ語への通訳はなかった。しっかりした講演がつづく。州の大臣が2人も登壇し、単なる祝辞ではなく、きちんと科学技術政策、地域振興策、その中の研究所と教授の貢献を紹介していた。米国からはDr. Victor Basiliが登壇し、実証的ソフトウェア工学のはしりから説き起こし、教授の功績の紹介があった。Dr.Basiliが講演を終えて降壇するとき、最前列で聞いていたDr. Rombachが歩み寄り、師弟関係にある2人の抱擁場面があった。日本からの出席者は一人だけ、ちょっとした出番もあり、教授には喜んでいただけた。 研究所の研究者ともすこし交流。すでに日本でIPA/SECの名称が変わったことは知られていた。会場には日本の研究プロジェクトでもお世話になった米国のDr. Barry Boehmの元気な姿もあった。
 近くのカイザースラウテルン大学で開催された記念のシンポジウムをのぞいて、ここを最終到達点として帰路についた。地域の学術の中心である大学キャンパスは緑に包まれた気持ちのよい環境だった。当日、陽光にすべてが輝いて見えた。ドイツにも入道雲の青空があった。この大学を中心に街道沿いにハイテク産業、研究機関が並んでいる。シリコンバレーを参考にしつつもドイツ流儀で産学連携環境をしっかり構築してきたようだ。
 帰路、カイザースラウテルン駅のホームでちょっと見上げたら、サッカースタジアムのスタンドが見えた。日本にとって「つわものどもが夢の跡」である。

続きは http://d.hatena.ne.jp/itkisyakai/20130624