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本田時夫氏(梅月堂代表取締役)〜壮大な「砂糖の来た道〜

2011年06月30日 登録者 つくだひとし
 ニューギニア原産のサトウキビ。この植物から砂糖を作り出したのははるか昔のインド人だった。ここから砂糖の旅が始まる。アレクサンドロスの兵士によって、イスラムの隊商によって、ヴェネツィアの商人によって、そしてコロンブスによって,西へ西へと地球を回り、そして16世紀、日本にやってきた。オランダ船にたっぷり積まれて長崎出島にたどり着き、小倉までの長崎街道が日本のシュガーロードになった。シュガーロードとは何なのか?  有史以来の砂糖の歴史と地球的シュガーロードの変遷、そして日本のシュガーロードを、梅月堂の本田時夫氏が地元のお菓子屋の視点から講演した。
アレキサンダー大王の東征

本田 みなさん、こんにちは。ようこそ長崎へ。長崎市のお隣、諫早市からやってまいりました。梅月堂というお菓子作りをやっております。数年前からですが、お菓子を地域を見直そうということで、商売のかたわら、身近に使っている砂糖の道、シュガーロードについて調べを始めました。今日はそのお話をしたいと思います。
 梅月堂という店は明治27(1894)年に初代の本田兼作が長崎市で創業しまして、大正2(1913)年に二代目藤四郎のとき市内の元石灰町に移転しました。昭和2(1927)年に湊町に移りまして、昭和58年(1983)年に現在の諫早市多良見町に本店を移しました。人が集まるところに商売がある、というのが家訓のようなことでして、それもありまして洋菓子、和菓子の両方をやっております。
 長崎の料理は甘い、とよく言われております。たしかに甘い。中華料理もそうですし、卓袱(しっぽく)料理も甘い。「甘いは美味い」と同時に贅沢なことでして、半分見栄も含めて(笑)長崎の人は砂糖をよく使います。歴史的に言いますと、江戸時代は海外との交易が長崎の出島で行われておりまして、長崎は天領だった。その関係から長崎の市民は豊かでした。
 何でもお上が面倒を見てくれるというので、その一例が長崎にだけあった「かまど金」というものです。お上に税金を納めるのではなくて、かまどの数だけお上がお金をくれる。明治に入りましても造船、石炭という産業が国策として推進されましたし、原爆という不幸な出来事はありましたが、三菱という大きな企業グループが長崎の経済を支えてきました。
 前振りはこの辺でやめまして、本題のシュガーロードのお話に入ってまいります。明坂英二さんの『砂糖が出島にやってきた』という本(長崎新聞新書)にも書いてありますが、シュガーロードというのは世界中にたくさんございます。近いところでは沖縄の宮古島にもございます。これはサトウキビから作った砂糖を出荷する道、ということです。
 「甘いは美味い」と申しましたが、人の舌は甘味に敏感なようにできています。舌には味を感じる味蕾が約1万個あるそうです。そのうち甘味を感じる味覚芽は舌の先に集中していまして、人は甘味に鋭く反応するようにできているんですね。
 甘味の元になるのはサトウダイコン、メープルシロップ、サトウキビなどですが、主流はサトウキビです。そのサトウキビの原産地は最近までインドと考えられていましたが、現在はニューギニアだということが分かっています。ニューギニアの原種がインドに行って、栽培されていた。これが紀元前4世紀、アレキサンダー大王の東征軍がインダス川のバッタラという都市に到達しまして、地中海文明の人たちに知られるようになりました。紀元前325年のこと、「蜜蜂の助けを借りずに蜜が採れる葦がある」という記事が、騎兵大隊長が残した記録に出ているそうです。
 サトウキビの栽培法と砂糖の製法は、インドから6世紀に中国に、地中海の島々にはペルシア、エジプトを経て10世紀ごろまでに伝わり、十字軍がヨーロッパに持ち帰ります。アメリカ大陸に伝わったのは15世紀でして、日本には16世紀ということになっています。
イスラム帝国が果たした役割

 では砂糖が最初から調味料として使われていたかと申しますと、そうではなくて、インドでは薬として扱われていました。サンスクリット語で砂糖は「サルカラ(sarkara)」でして、「引き裂く」「成形する」の合成語です。サトウキビの茎を潰して搾った液から糖分を抽出する工程そのものです。Sarkaraがラテン語の「サッカラム(saccharum)」、英語の「シュガー(suger)」、ドイツ語の「ツッカー(zucker)」、フランス語の「シュルク(sucre)」、スペイン語の「アスカル(azucar)」として広がっていきます。
 さきほどお見せした「砂糖の歴史」で6世紀から11世紀まで、約500年の空白がございます。この500年を埋めるのがイスラム帝国です。この帝国はユーラシア大陸の東と西をつなぐ役割を果たしました。ムハメドマホメットムハンマドともいいますが―、この人がイスラム教を創始したのは622年とされています。それから8年後にイスラム教徒軍はメッカを無血開城させて征服します。興味深いのは、ムハメドが亡くなった633年以後の方が軍事行動が活発だったことです。
 7世紀後半にアラビア半島からシリア、エジプト、ペルシアを支配下に置きまして、8世紀初頭には北アフリカからジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに上陸します。イスラム軍の破竹の勢いをポワティエの戦いで食い止めたカール・マルテルは、現在でもフランスでは英雄です。
 で、そのイスラム帝国にジュンディシュプール(Gundeshupur)という都市がありまして、紀元3世紀後半にササン朝ペルシア帝国のシュプール1世が都としたところですが、ローマ帝国との戦いで捕虜にした学者や技術者、芸術家をここに住まわせたので、アテネアカデメイアに代わる学術都市として栄えました。東ローマ帝国で迫害されたネストリウス派キリスト教徒が移住して、これが中国に渡りまして「景教」と呼ばれます。
 ネストリウス派の特徴は医師が多かったということです。西進してきた砂糖がジュンディシュプールネストリウス派の医師と出会いまして、ここで薬として製法が確立していきます。サトウキビから現在のような砂糖を精製する技術が確立したのは10世紀ごろでして、このため中国ではサトウキビの搾り汁を煮詰めてドロッとさせた糖蜜でした。マルコポーロの東方見聞録にそのことが記録されています。
 10世紀に確立した精糖技術というのは、サトウキビの搾り汁を大きな甕に入れまして、その甕の底には小さな穴が開いている。甕の底には木炭が敷き詰められていて、木炭のアルカリ性が搾り汁に含まれる酸類と化合して中和します。酸類はアクとして浮かんだり沈殿しますので、糖度の高い液が甕の底の穴から滴り落ちる。その糖液を型枠に入れて水分を飛ばしていく。
 10世紀ごろ、ヨーロッパにシリアとエジプトから砂糖が輸出されています。当時のヨーロッパはキリスト教復権を目指すレコンキスタ、十字軍の時代で、イスラム帝国とは敵対していました。貿易の窓口となったのがヴェネツィアヴェニス)です。1202年の第4次十字軍のスポンサーとなったのがヴェネツィアの商人たちでしたが、注目するのは十字軍は軍事的遠征だけでなくヨーロッパ人の集団移住という側面も備えていたことです。
 ヨーロッパ人は基本的に森の住人でして、狩猟採集の生活を送っていたところに小麦が入ってきて、10世紀ごろ人口爆発を起こします。森から溢れた人々が十字軍とともにマルコポーロがたどった道を東方に向かい、イスラム文化が発明した風車ですとかガラスですとは、スパイス、粉末のアーモンド、砂糖、果物の砂糖漬けなどと出会います。
 十字軍のあと、1338年に北イタリアのピアツェンツァという町で行われた結婚披露宴の料理のメニューが残っています。まず赤と白のワインと砂糖菓子が出てきます。次に鴨のロースト、アーモンドと砂糖と各種香辛料で煮た大きな肉の切り身、その他いろいろのあと、デザートとしてタルト、砂糖菓子、生チーズ。当時は食べ物を手づかみですので、手を洗います。すると食卓を立つ前に飲み物と砂糖菓子が出てきます。砂糖のオンパレードでして、このころ砂糖は薬ではなく、贅沢な食べ物としてすでに認識されていたことが分かります。
ザビエルから平戸・出島の300年

 では日本ではどうだったかといいますと、正倉院の「種種薬帳」という古文書、聖武天皇の遺品に「蔗糖」という文字が見えています。中国から遣唐使がもらたしたのでしょう。むろん当時は薬でした。
 本格的に入ってきたのは16世紀です。1549年に現在の鹿児島市祇園之洲町にフランシスコ・ザビエルが来着しまして、上陸した8月15日がキリスト教の聖母昇天日だったので、ザビエルは「この地を聖マリアに捧げる」と書いています。何とも勝手な話です(笑)。1550年、平戸にポルトガル船が来着したとの報を耳にしたザビエルは鹿児島を発って平戸に急行し、ここから日本国内での布教活動が始まりました(当時のポルトガルカスティーリャアラゴン連合王朝だった。この「カスティーリャ」がカステラの語源。ポルトガルには日本のカステラに相当する菓子は存在せず、平戸・長崎での創案に成るとされている)。
 交易船は船底に重たい物、バラストを入れて安定を図ります。砂糖はバラストとして最初は平戸に、1634年以後は長崎の出島に運ばれました。砂糖の前は石灰だったようです。石灰は漆喰の材料として全国に流通していきます。お城とか武家屋敷、お寺、商家の倉など、火に強い建材ですので、戦国の乱世が統一に向かう中で強い需要がありました。石灰が荷揚げされた石灰(しっくい)町、運んできた船を修理する職人が住んでいた船大工町、荷造り用の籠を作る職人の町が籠町。現在もこの町名が長崎に残っていますし、長崎くんちには山車が出ます。石灰町は梅月堂が最初に店を構えたところでもありまして、当時はたいへん賑わっていた。
 砂糖は袋か籠に入れられて日本にやってきました。港に船が着くと商館の倉に運ばれ、代わりに日本の銀と銅が船底に詰められます。袋入りは約60kg、籠入りは1つが240kgもありまして、人夫4人がかりでやっと運べる重さです。川原慶賀という長崎の絵をたくさん残した人が描いた絵にも、そういう景色が出てきています。
 出島では砂糖だけに適用される「風袋引き」という取引き方式がありました。袋の重さを引いて一斤当りの価格を決めるやり方です。これが幕末まで、300年間ず〜と行われていたんですね。出島に来航した南蛮船はポルトガルからオランダに変わります。オランダ商館のカピタンとして記憶に残るのは、ヘンドリック・ドーフという人です。この方は寛政11(1779)年に長崎に来ましたが、日本にいる間に本国のオランダがフランスに併合されまして、オランダの国旗が翻っていたのは世界中で出島だけでした。
 この方がオランダ語と日本語の対訳辞書を編集しまして、亡くなったあと完成して、「ドーフ・ハルマ」という名で幕末開明派や志士の知識の源となりました。
 
長崎街道沿いに点在する銘菓

お示ししたのは長崎街道です。シュガーロードということですので、平戸街道も併せて示しています。この街道沿いに砂糖を使った伝統和菓子が点在しています。その銘菓をご紹介しますと、長崎のカステラ、諫早のおこし(?)、これは杉谷屋さんのおこしです。糒を砂糖の蜜で固めた素朴なお菓子です。マルボーロ(?)もシュガーロードのお菓子です。佐賀の北島さんという元禄9年創業の老舗から佐世保の横尾家に製法が伝えられまして、この横尾家が実は母の実家です。
 次は小城羊羹(?)です。羊羹というのは全国にありますけれど、小城羊羹というのは砂糖の味を最大限に引出した、これこそ「シュガーロードのお菓子」といっていいかと思います。ここでは村岡総本舗というお店の羊羹をご紹介しました。
 一口香(いっこうこう)もシュガーロードのお菓子です。重曹を入れて焼きますと、中が空洞になって餡が内側にくっつきます。「アンコがちょっとしか入ってなかった」というクレームがあるそうですが(笑)、これも味わいのある銘菓です。最後にご紹介するのがカスドースという平戸のお菓子です。ポルトガル船が日本に運んできた当時のお菓子のままとされておりまして、カステラを衣に包んで油で揚げて、さらに砂糖をまぶすというものです。平戸には鎮信流という日本で最も古い茶道がありまして、茶道とともにお菓子が発展し、伝えられてきたことがよく分かります。

 砂糖とお菓子のお話で付け加えておきたいのは、まず羊羹です。羊羹というのは「丁稚羊羹」という言葉があるように、安くて簡単に作れるお菓子でした。蒸し菓子ですので、作ったらすぐ食べないと痛んでしまいます。砂糖がふんだんに使われるようになって「砂糖羊羹」が生まれまして、寒天に餡を練りこんだ「練羊羹」が誕生します。寒天と餡の組合わせは日本のオリジナルです。それによって羊羹は日持ちするようになり、高級菓子になりました。
 カステラも一口香も砂糖をふんだんに使うことで高級菓子になっています。カステラのシットリ感や味わいは砂糖じゃないと出せません。日持ちという点でも、砂糖があればこそです。非常に完成度が高い。そして両方とも、利益という点でも完成度が高い(笑)。一口香は手間はかかりますが、材料費は少ないですから(笑)。皆さんお笑いになりますが、儲かるということは、とても大切なことです。
 昔から長崎では「菓子屋はカステラ1枚売れれば食べていける」と言われていました。朝焼いて、店の前に並べておいて切り売りする。ただそれは家族経営の場合で、店を借りて、従業員を雇って、となりますと、そう簡単な話ではありませんが。ともあれ完成度が高いからこそ、変わらない価値を認めていただける。伝統というのは古ければいいわけではありません。
 今回は砂糖の来た道の研究を初めて発表させていただきました。ありがとうございました。(拍手)