IT記者会Report

オリジナルな記事や送られてきたニュースリリース、セミナーのプレゼン資料など

東日本大震災・6度目の秋〜津波被災地は一定の目処〜(3)

東日本大震災・6度目の秋〜津波被災地は一定の目処〜(3)
嵩上げと防潮堤の先に何があるか 相馬市松川浦から仙台市荒浜へ 2016年10月17日14:10 登録者 つくだひとし
 12日の午後は国道6号線放射能汚染地区を通過しただけなので、今回は端折る。13日は相馬市の松川浦から宮城県女川町まで、三陸自動車道を挟んで約120?の行程。一般道を4時間もあれば済む距離だが、視察先や休憩場所を組み入れるために地図をしげしげと眺めることになる。それで気がついたのは、意外に湖沼が多いことだった。相馬市の松川浦、山元町の水神沼、亘理町の鳥の海、名取市閖上の広浦、仙台市の大沼……。太平洋に注いでいた川の名残りではあろうけれど、それだけ海抜が低いということだ。

太平洋と松川浦の開口部に橋、境目の洲には防潮堤を作るクレーンや重機が見えた

山元町中浜の津波被災地は一面のセイタカアワダチ草だった
用途ないまま空地が広がる

 松川浦には温泉宿があることから、宿泊予約を入れるつもりだった。主要な宿は営業を再開しているが、復興作業関係者でほぼ満室という状態だった(探せば見つかったかもしれない)。ということで宿は市内のビジネスホテルに取ったのだが、出発時間を少し早めて立ち寄ってみようということになった。
 宿の多くは釣宿であるらしい。風光明媚な汽水湖を眺めながら会食を楽しむ宴席会場も兼ねている。その護岸から遠望すると、太平洋との境目にある洲の上にアームの長いクレーンやショベルカーが何台も並んでいる。浦の入り口に架かる橋と防潮堤を作っているのが見て取れる。
 松川浦の北側に位置する相馬港は津波被害の跡が広がっていた。ただ、新地火力発電所にエネルギーを送るためだろうか、防潮堤の向こう側に巨大なタンクが建設中だった。「JAPEX」「T-211-LNGタンク」「保税」「230,000㎥」の文字からすると、石油資源開発が輸入した液化天然ガスの貯蔵施設ということだ。これは必ずしも復興の一環といえそうにない。
 次いで訪れた宮城県山元町の中浜地区も茫漠とした空間が広がっていた。おそらく津波で家屋が流されたり大破して取り壊された、その跡地が何の用途もなく放置され、セイタカアワダチ草が一面に生い茂っていた。何台ものダンプカーとすれ違ったので、防潮堤と水門の建設を先行させ、嵩上げはこれからということかもしれない。
「震災の記憶」と「鎮魂」の碑

 東日本大震災被災地の〈その後〉を見て回る旅は、縦割り行政の矛盾や齟齬を目の当たりにすると同時に、慰霊と鎮魂の思いを重ねる旅でもある。実際、2014年8月に実施した第2回視察ツアーでは津軽石川水門(宮古市)、大槌町役場(大槌町)、米沢商会ビル(陸前高田市)、第十八共徳丸(気仙沼市)、南三陸町防災センター(南三陸町)といった「震災の記憶」を見て回った。手を合わせ、献花することもあった。
 今回はどうだったかというと、まず山元町中浜で「千年の塔」に出くわした。出くわしたというのはまさにその通りで、実は震災復興に伴う道路の付け替えで道に迷い、方向を失っていたところ、唐突に大きな五輪塔が現れたのだ。
 海岸から300m、津波に流された墓地の跡に、山元町坂元にある徳本寺の檀家とNPO「みちのく巡礼」の有志が建立した。震災の犠牲となった137人の名を刻み、その霊を祀っている。「母三十九歳、子一歳十ヶ月」とあるのは、あえて名を伏したのか。渺渺たる曠野の只中にタルチョー(柱から円錐形に伸ばした紐に色とりどりの三角旗を付けるチベット仏教の飾り)がはためく光景は、まさに鎮魂そのものだ。
 「千年の塔」の間近に、震災遺構として保存が決まった旧中浜小学校の校舎が建っている。2011年3月11日の発災直後、同校には児童59人と教職員14名、避難してきた周辺住民を合わせ90人がいた。津波発生の報を得ていた校長が、「1.5?離れた指定避難所に向かっていては、低学年の児童の足では間に合わない」と判断し、全員が屋上の屋根裏倉庫に避難した。
 津波は午後3時45分の第1波を最初に、計4回襲ってきたが、2階のガラス窓を破って校舎を突き抜け、第2波の引き波が第3波(最大波)の勢いを削いだ。津波はおさまったが周辺が水浸しのため、90人はそのまま夜を明かし、翌朝6時ごろ、自衛隊のヘリコプターが発見・救出した。中浜小学校は現在、指定避難所だった中浜中学校校舎内に移転している。
 

千年の塔

旧中浜小学校校舎(山元町)
 仙台市若林区荒浜に建つ旧荒浜小学校校舎も震災遺構として保存が決まっている。同校は2011年4月25日、発災後初めて足を踏み入れた最初の取材地となった。校舎裏の鉄塔には軽自動車や農機具が突き刺さり、あたりはヘドロの匂いに満ちていた。また校舎左側には体育館があって、その外壁は大破し歪んでいた。
 同校には児童、教職員、近隣住民の計320人が避難していたが、消防団員の「津波が来るぞ」という声で4階に上がった。津波は2階の床上40?まで浸水したが、翌朝5時までに全員が無事に救出されている。
 同校舎は現在、保存のため来年3月まで内装工事が行われている。正門前に立っていた若い警備員に聞くと、「このあたりの住居跡も一緒に震災遺構になることになっています」という。そうだった、最初に来たとき、周辺には1階が大破した住宅や店舗が残っていた。その住宅跡はいま、草むらの中に潜んでいる。仙台市は〈面〉で震災の記憶を保存すると決定したのだった。

旧荒浜小学校校舎(仙台市若林区