IT記者会Report

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東日本大震災5回目の秋(10月26〜28日) 放射能汚染地帯を行く⑨

避難指定解除の先にあるもの

のどかな里山風景の中に、突然、「放射能焼却場建設反対」の文字が現れる

 「東日本大震災5回目の秋〜6国と放射能汚染地帯を行く〜」第9回は、10月28日、福島市から川内村までの見聞録。のどかな里山風景の中に突然現れた「放射能焼却場建設反対」の看板が、「ここは放射能汚染地帯だぞ」と再認識させ、川内村でのインタビューは帰村がそう簡単には進まないことを実感した。もうひとつ気がついたのは、公設のモニタリングポストがいくつか運用を停止していたこと。市民の関心が薄くなったからか、意図的に薄くしているのか。

福島駅の線量表示は停止中だった。0.07μSvは「東京都内よりやや高め」という程度だが、設置場所がコンクリートで固められているのがミソ。

約6千人の村に工事関係者7千人

 「そろそろ出たほうがいいですよ」
 いいたてふぁーむ(飯舘村野手神)を本拠に活動している伊藤延由氏に促されて、視察ツアーの一行は腰をあげた。大渋滞に巻き込まれる、というのだ。
 「何せ5900人の村に除染作業や減容化施設の工事で7000人が入っていますから」
 飯舘村は全村避難で、夜は寝泊まりできない。もうしばらくすると、福島市や相馬市の宿に向かって一斉に帰り始める。使う道は一緒なので、大渋滞が起こる。
 ということで、それにしても早すぎないか? と思いつつ伊藤氏に別れを告げ、福島市のホテルに到着したのは午後5時前だった。夕食がてら外に出たとき思い出したのは、別れ際に伊藤氏が言った「福島駅にもモニタリングポストがありますから」の一言。「見に行きましょう」と東口(在来線側)周辺を探したのだが、どこにあるのかサッパリ分からない。駅員に聞くと、西口(新幹線側)だという。
 駅の東西を貫く自由通路(地下道)を通って西口へ出たのだが、土地勘がないこともあって「らしきもの」が見当たらない。探しあぐねた末、やっとのこと新幹線沿いの北端、「ルネサスプラザ福島」前に発見した。ところが太陽光発電パネルが故障しているのかスイッチを切っているのか、モニタリングポストの表示は停止中だった。携行した空間線量測定器は0.07μSv/hを示しているが、妥当かどうか比較することができない。
 0.07μSv/hなら、記者会の事務所がある東京都千代田区神田神保町1丁目周辺の路上(0.05μSv/h)と大差はない。一説に福島駅のモニタリングポストは周辺の表土を入れ替え、落ち葉が溜らないようにした上で、ていねいに除染をしているという。県や市町村が、原発推進を明確にしている政府に抗することができない以上、放射線量を低く見せたいと工夫するのは当然(といってそれを肯定するわけではないが)。しかしそれでも数値を表示していれば、市民にとって「目安」にはなる。修理もせず表示停止というのは、放射能に対する市民の不安を拭おうともしないのか、当局の姿勢にかかわる。

ここにも減容施設の計画

 福島市からは、国道114号線で川俣町〜国道349号線二本松市〜県道119号線で田村市〜国道288号・399号線で川内村へ、というルートを取った。このルートなら放射能の汚染はきつくない。飯舘村の多くの田んぼを覆っていたフレコンパックの山は、まるで「絶望」の象徴のようだった。丹念に耕してきた宝の土地を一瞬にして廃地にしてしまった放射能の「絶望」。その重さに気圧されていたのだ。
 実際、道の駅「ふくしま東和」(二本松市太田)は穏やかだったし、田村市の常葉、都路の沿線は紅葉がきれいだった。稲刈りあとの里山の景色を見ると、フクイチから半径20㎞の円内に入る田村市の都路地区は昨年4月に避難指示区域の指定が解除され、除染作業が進んだ結果、4年ぶりの稲刈りが行われたと聞く。
 稲を干す稲架(はざかけ)には丸太で組んだ馬の背に稲束を振り分ける「横木渡し」、田んぼに立てた丸太に回すように稲を重ねていく「杭掛け」、稲束を田んぼに直接置いていく「地干し」など、地方によって様ざまな方式があるそうだが、国道288号沿線では主要な方式をすべて見ることができた。
 ただ「地干し」は田んぼの水はけがよほど良くなければならない。泥濘になりやすい田では稲穂に土が付き、精米したとき小石が混ざりやすくなる。それでカメラを望遠にして観察したところ、どうやらそれは稲でなく、畔に植えてあった大豆であるらしかった。いずれにせよ、多様な稲架が入り組んで併存している状況は、ひょっとすると民俗学研究の対象になるかもしれない。
 見かけは3.11前に戻ったかのようだが、現実はそうではなかった。稲刈りが終わった田んぼの一画に、「放射能焼却場建設反対」の文字が目につくようになったのだ。ここにも飯舘村で見たような減容架施設を建設する計画がある、ということだ。山を崩し、工事車両が往来する道路を造り、焼却場が完成すれば放射能に汚染した木材や雑草を満載したダンプカーが1日200台以上通過する。放射能汚染の事実は覆い隠せない。

川内村役場。庁舎屋上の看板は、2012年は「負けないぞ! かわうち」だった。

完全帰村は全住民の3割弱

 午前11時過ぎ、視察ツアーの車は川内村に入った。フクイチの西南に位置し、山を越えれば富岡町楢葉町だ。ただし飯舘村のように、ダイレクトに太平洋側に抜ける道路はない。フクイチ由来の放射能に汚染されながら、2012年、帰村宣言(「かえる宣言」と言い換えて蛙をシンボルマークにした)をして話題になった。
 筆者が初めて訪れたのは、帰村宣言を出した直後の2012年4月3日、途中で雪が降り出す寒い日だった。そのときはいわき市から川内村役場を経由して田村市に抜けたので、今回はその逆ルートをたどっていることになる。
 そのとき役場の屋上に掲げられていた「負けないぞ」が「お帰りなさい」に変わっていた。屋外のモニタリングポストは停止していたが、屋内には村役場が設置した線量計があって、0.07μSv/hを示していた。2012年4月時点の0.25μSv/hから大幅に低減している。
 双葉郡6町2村の中で最も早く除染作業が着手されたこと、除染で出た放射能汚染物が居住地域から隔離されているなどが要因のようだ。ちなみに仮「仮置場」の放射線量(公表値)は0.14〜0.53μSv/hとなっている。
 農業(米、葉タバコ、養蚕、野菜など)と林業が中心だった。原発の建設が労働力を流出させ、過疎化が決定的になった。フクイチの放射能は村の存続を左右する。いち早く帰村宣言を出したのは、その危機感の現れだったのだろう。
 役場の中に入って住民課の職員に聞くと、台帳上の住民約2600人のうち、帰村しているのは約6割という。
 「その半分は避難所と自宅の間を行ったり来たりしています。完全に帰村したのは3割弱じゃないでしょうか」
 ーー学校が始まっちゃうと子どもがいる家庭は戻ってこなくなる。帰村宣言をしたとき、そういう話をここでうかがいました。
 「そうでしょうね。友だちができちゃうと難しいでしょう」
 ーーすると残り4割の方々は帰村しないかもしれない?
 「私たちの立場では何とも言えませんが」
 戻る・戻らないは個人の判断に委ねられる。復興への道のりは生半(なまなか)でない。