IT記者会Report

IT/ICTのこと、アレヤコレヤ

ページビューを調べる

2015年夏の東吾妻(2) スルー・スポイト・スポイル 上信自動車道の計画も


 地方に行くと感じるのは「スルー」「スポイト」「スポイル」の3つ。新幹線や高速道路が開通して都市部から観光客が押し寄せるのは最初だけ、数年もすると日常に組み込まれる。都市部からの時間距離が短縮されるので、観光客の宿泊数が激減する。駅やインターチェンジがない町は通過されてしまう。TVで紹介されたお土産はネット通販で手に入るし、すぐ類似品が市場に出回る。物流時間が短縮されれば、生産拠点や倉庫はより遠くに置いても構わない。結果として地域の産業は衰退し、若年層が都市部に吸い込まれ、商店街はシャッター通りとなり、高齢化と少子化が加速する。スルーとスポイトが地域をスポイルする、という構図だ。

「農に行こう」と「豪農

 なぜこの話をしたかというと、吾妻地方を東西に横切る「上信自動車道」の計画があるためだ。関越自動車道の渋川伊香保インターチェンジ渋川市)から上信越自動車道の東部湯の丸インターチェンジ(長野県東御市)まで計8本のバイパスで構成する。総延長は約80kmの地域高規格道路だ。筆者の自宅周辺では横浜新道、保土ヶ谷バイパス横浜横須賀道路なども地域高規格道路で、在来の生活道路が交差する一般道と違って、それなりのインターチェンジと取付道路が建設される。たしかに運送業者や旅行者には時間の短縮になるのだが……。
 今回の八ッ場ダム工事現場視察ツアーを企画するきっかけとなった「GO!農」プロジェクト」を説明すると、発案したのは片貝システム研究所の片貝孝夫氏と東京工科大学の高橋正視氏。両氏はかねてから旧知で、たまたま高橋氏は佐渡・臼ヶ滝周辺でのトキ野生化を、片貝氏は故郷の岩島中学校(東吾妻町岩下=写真=)が今年3月末に閉校となったあとの再利用をそれぞれ模索していることを知った。その背後に過疎化と高齢化に起因する故郷への危機感がある。
 ※岩下にあるのに校名が「岩島」なのは、校区が岩下地区と三島地区のため。両地区ともかつては独立した村だった。
 以下は伝聞だが、一杯飲み屋で杯を交わしながら「首都圏で暮らしている地元出身者が知恵を出すことで役に立てれば」「そういえば昔は地域の豪農がその役割を担っていましたね」というような話の最後に、高橋氏が「GO!農ですよね」と口にしたのが、そのままプロジェクト名になった。「GO!農」には「農(農村・農業)に行こう」の意だけでなく、「豪農」の含意が隠されている。
 佐渡のトキと岩島中学校を結ぶのは「田んぼ」だ。トキが野生の環境で自律的に自生していくには、ドジョウやタニシが生息できる田んぼや小川、林や茂みが欠かせない。それで高橋氏は東京工科大学の授業(サービス・ラーニング)の一つとして、学生たちが地元の人たちと一緒になって臼ヶ滝の休耕田を復活させる活動を実施してきた。しかし首都圏から佐渡までは遠い。
 そこで岩島中学校の周りの休耕田で田んぼ作りの練習をしたらどうだろう、ということになった。さらに岩島中学校の校舎を学生ボランティアの合宿所に使えないか、各種の資料を蓄積した研究・研修拠点にならないか、並行して校舎をサテライトオフィスとして利活用する「どこでもオフィス」、都市で本業・農村で畑仕事を半分ずつのライフスタイル「半農半X」などが提唱されている。

岩下の享保雛を見に行く

 授業の一環(つまり履修単位がかかっている)なので、東京工科大学の学生は「好むと好まざるにかかわらず」だ。しかし社会人を岩下や臼ヶ滝に呼び込むには、具体的な何かが要る。想定されるのはイベント、歴史的構造物、ユニークな施設、食べもの、景色などだが、「ここだけ」がないと優位性がない。片貝氏が思いついたのが、岩下の片貝本家に伝来する享保雛だった。
 享保雛は日光東照宮の建造が終わったあと、江戸周辺に住み着いた工芸職人が作った雛人形の総称。8代徳川将軍・吉宗の享保年間(1716〜1736)に形が定まったので、この名がある。江戸市中の資産家ばかりでなく、商売で往来した周辺地域の豪商・豪農が、最新の知識、貴重な文物(書物や絵画など)とともに持ち帰った。
 片貝家に享保雛がもたらされたのは江戸後晩期の文政12年(1829)、片貝清兵衞が母・もとの願いで入手したものらしい。従兄弟に当る現在の当主が代々受け継いできた享保雛のために母屋の屋根を葺き直した、と片貝氏が知ったのが、「故郷のために何かやらなくては」と考えるきっかけになったという。
 今年2月28〜3月2日に行われた享保雛見学会で実物を見ることができたのだが、雛壇に並ぶのは内裏様1対と七福神の計9体、大きさは平均して高さが80cmと予想外に大きい。200年近くの時間の中で色がやや褪せているものの、往時は豪華な金襴だったことが想像できる。一体ずつ箱に入れ、利根川を船で遡り、馬の背に乗せて江戸からはるばる運ばれてきたのだろう。
 岩下にはもう一つ、應永寺という曹洞宗の寺がある。その名が年号に由来しているとすれば西暦1394〜1428年、南北朝時代末期の建立ということになる。その山門はまさに鎌倉・室町期の二階堂だ。一説に、應永寺は元「清龍寺」といっていたのを、山内上杉家の靡下にあった吾妻斎藤氏が大永7(1527)年に再建したという。門の天井に描かれている雲龍と飛天は後世の作だが、創建時と再建時の流行りを継承したものだろうか。

日本一の麻の産地だった

 岩下に享保雛が伝来し、鎌倉二階堂式の山門が存在する(相応の本堂や経蔵、鐘楼も建立されたに違いない)のは、相当の財力がなければならない。戦国時代まで、東吾妻は上野と信濃を結ぶ交通路だったが、要路は高崎から榛名山の南麓を通って草津に抜ける草津街道であって、実際、国定忠治一党は草津街道の大戸関所を突破しようと試みて失敗した(関所跡のほど近くに忠治処刑場跡「忠治地蔵」がある)。
 吾妻路が開けたのは江戸時代、吾妻川が水運に利用されるようになってからである。東吾妻町岩井・伊能家文書によると、嘉永年間(1848〜1854)、岩井・原町・山田の3か所に川岸場を作る計画があったとされる。その前から吾妻川水運が盛んに行われていたことを物語る。
 舟で運んだのは麻だという。16世紀、東国における麻の産地は越後(新潟県)の小千谷付近。それを越後上杉家が独占し、主要な交易品の一つとして財源にした。その後、上杉家で麻の栽培に従事していた片貝村の一党が吾妻の地に移り住んだ。
 寛文年間(1661〜1672)、東西の廻船航路が開拓され、全国規模で農産商品の流通が始まった。その中で麻は庶民の衣服をはじめ、晒や縮といった高級織物のほか、武士階級の裃、法衣、漁網、廻船の帆などの需要が高まった。吾妻に入植した越後片貝村の一党は麻糸を江戸のほか、越後、奈良、房総などに出荷した。享保雛を岩島に運んだ片貝清兵衛は、当時日本一と評された岩島麻(上州北麻、吾妻錦とも)を商うことで財を成したのに違いない。