IT記者会Report

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2015年夏の八ッ場(1) 引き返す選択肢はない

「本当に必要か」は問われ続ける

 群馬県東吾妻町にある岩島中学校の閉校をきっかけに、半農半Xの新しいライフスタイルを模索する「GO!農プロジェクト」がスタートした。その一環で、校舎に各種の資料室を集積し研究拠点とする案がある。提案者の一人として仲間を探していたところ、日本不動産ジャーナリスト会議(REJA)の有志から「八ッ場ダムを視察するついででよければ」の声が上がった。準過疎地の”今”を知るいい機会――ということで視察ツアーを企画した。

橋の向こう右側、岩肌がはだけたところがダムの左岸。見はるかす一帯が水の底に沈む。


地図をもとに担当官と意見交換をするREJAの千葉利宏記者

 ツアー実施日は7月24・25の1泊2日。IT記者会・REJA有志の合同ツアーは東日本大震災被災地視察に次いで2回目となる。専門記者の集まりだけあって、国土交通省八ッ場ダム工事現場への視察立入りを申請したところ、OKの返事がきた。
 一方、「GO!農プロジェクト」の立場として当日の宿を手配するとともに、地元の方と連絡を取り合って、岩島中学校校舎の鍵を開けてもらう段取りが整った。夕食には町議も来てくれるという。
 24日は道の駅「八ッ場ふるさと館」で工事事務所の方と合流、簡単な説明を受けたあと担当官が工事現場に付き添って説明してくれることになった。レポートの第1回目は、担当官の説明から受けた感想を織り交ぜて、である。

酸性の水質で一度は断念

 利根川水系の上流に大規模ダムを――という構想が浮上したのは1949年。その2年前の9月、関東地方を襲ったカスリーン台風によって利根川水系が氾濫し、死者・行方不明約2000人、家屋損壊・浸水約40万戸、流失・埋没農地1万3000haという大きな被害を起こしたのだ。
 調査の結果、吾妻川は酸性が強く、コンクリートを腐食させるとして、ダムの建設は見送られた。草津温泉に代表される硫黄分を多く含んだ地下水が流れ込んでいたためだった。実際、そのために吾妻川流域の人々は、身近な沢から畑や田んぼに水を引き、井戸の水を飲食に使ってきた。
 状況が変わったのは1964年以後。吾妻川支流の白砂川に品木ダムが建設され、その上流に設けた工場から大量の炭酸カルシウムを投入して水を中和することに成功した。コンクリート工事が可能になったので、1967年から八ッ場ダムの構想が具体化に向けて動き出した。つまり八ッ場ダムは今年が計画から48年目、穿った見方をすれば群馬県が生んだ福田赳夫中曽根康弘の両首相がいたればこそ始まった公共事業であり、地元選出の小渕恵三氏が首相のとき反対派の転向が定まったのかもしれない。

失われる歴史と民俗

 確認のために記しておくと、ダム工事が進んでいる吾妻川は、群馬県の北西、長野県との県境である鳥居峠を水源に渋川市利根川と合流する。全長76kmの一級河川で、ダム本体の工事現場は渋川市中心部から約43km遡ったところにある。ダムが完成するとJR吾妻線「岩島」駅と「川原湯温泉」駅の中間点から長野原町にかけて、吾妻渓谷の中流域が水没することになる。
 ちなみに「八ッ場」という地名の由来は、「獣を捕える8つの落し穴」のほか、「矢場(矢を射る場所)」「谷場(急流)」の音便などの説がある。東吾妻町郷原遺跡から「ハート型土偶」(国宝、写真はJR「原町」駅付近の三叉路に立つモニュメント)や大規模集落の跡が出土しているなど、古代は食料が安定的に入手できる場所だった。
 民俗学的な話をすれば、吾妻の名は「東=アヅマ」に通じる。その「アヅマ」は海人族(津見族)が川を遡って住み着いたことを物語る。『古事記』に倭武尊が亡き妻・弟橘媛を偲んで「我が妻よ」と嘆き悲しんだという地名発祥伝説は、むろん伝説の域を出ない。

政権交代で計画が大揺れ

 八ッ場ダムが話題となったのは、2009年8月に行われた第45回衆院選民主党が大勝したのがきっかけだった。マニフェストに「国の大型公共事業を根本から見直す」と謳ったのは、アンチ自民党政治の旗印「コンクリートから人へ」をアピールすることに目的があったことは間違いない。
 「無駄な公共事業」とされた理由は様々だが、予定総額が2100億円から4600億円に増額されたのが最大の要因。またダム建設計画の原点が1949年に策定された「利根川改修改定計画」となれば、状況がまったく違っている。「ダムは本当に必要なのか」は、今後も問われ続けるだろう。
 さらにいえば、民主党が問いかけたのは「絶対に止まることがない公共事業」のありかただった。その背後にうごめく政治と官僚機構の綱引き、事業者や地元住民の利害関係、それによって無為に浪費される多額の税金——。その典型として八ッ場ダムが注目されたことが、結果として問題を矮小化させてしまった。
 マニフェストに従って民主党政権は「工事中止」を表明したのだが、2年後の12月、俄かに「工事継続」に転換した。政権を奪取したとき民主党は「革命的変革」を掲げたが、鳩山―菅―野田の3代で現実との妥協に舵を切った。結果、工事計画は大揺れ、完成時期は2020年度に延長、高台に移転して生活再建に取り組んでいた人々は振り回された。
 利根川下流域の洪水被害の抑止、農業・工業用水と飲料水の確保、水力発電および、観光資源という複合的な目的については、いまだに根強い異論がある。また完成後は、堆積土砂の浚渫や流木の除去する負荷もある。ダム建設計画が動き出す発端となったカスリーン台風(1947年)当時と水利にかかる需要が大きく違っているし、風光明媚な渓谷を失うデメリットは否定できない。しかし「引き戻す」という選択肢があるだろうか。
 民主党が「中止」を打ち出した2009年の時点でも、事態は現在とほぼ同じだった。2001年6月に「八ッ場ダム建設事業の施行に伴う補償基準」が、2005年9月に「代替地分譲基準」がそれぞれ調印され、2007年6月から代替地分譲が始まっていたためだ。「中止」の判断は10年遅かった。