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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(7)

将軍来日

 実業家渋沢栄一の社会活動はその実業活動と密接に織り重なりながら次第に活発化した。まずは証券取引所の開設、ついで条約改正問題を背景とした世論吸い上げ機構としての商法会議所の開設、そして米国前大統領グラント将軍の来日歓迎とつづく。


東京・芝、増上寺のグラント松
 
 日本では渋沢栄一の在官中、株式取引所開設の是非についてまだ株式取引が存在しない段階で空米相場との類推から議論があった。欧州で取引経験のあった渋沢栄一は賭博との違いを指摘し賛成論を展開した。そして取引所条例公布後、益田孝、渋沢喜作らと売買証拠金、仲買人身元保証金の減額などの便宜を求めた取引改正意見を政府に提出し、諒解を得て明治十一年、東京株式取引所を操業した。当初は新旧公債、秩録公債、起業公債などを扱い微々たる売上高だった。取引所は大阪、横浜にも開設された。渋沢栄一は東京株式、米穀取引所、大阪株式取引所の株主となったが投機事業を好まず、まもなく手をひいた。
 次に明治政府の焦眉の急は条約改正問題となる。安政年間に欧米各国と結んだ不平等条約の有効期限が明治五年7月に迫り、条約改正が課題となった。そのために明治四年9月、勅命によってあの岩倉使節団が派遣される。その結果は厳しい失敗だった。
 この岩倉使節団の派遣、その内容に津本陽は触れていないが、それはそれは凄い旅だった。現代の一般の日本人がその全貌を認識できるようになったのはごく最近である。今でも教科書の僅かな記述程度にしか意識してない人は多い。あしかけ3年、全623日におよぶ米欧10ヵ国の旅の実像は使節団の記録係、久米邦武の卓越した筆によって大著「米欧回覧実記」としてまとめられた。
 追って岩波文庫5分冊に収録、1977年出版。
 しかしこれは読み通せない。カタカナの漢文訓読体だ。
 読点(、)は激しく打たれるが句点(。)はない。
 これが研究者の多大な努力によって現代訳が作られ、かつ普及版の書籍として出版されたのが実に2008年6月である。
 英文全訳のほうが2002年に出版されていて、現代の識者はむしろこちらを手にするという変則状態だった。字数の多い版組みで全5巻、2,000ページ超、これに100ページを超す総索引が付く。新聞の書評に促されて手にした筆者はたちまちその魅力に取り憑かれ、現在4巻目を楽しんでいるところである。
 この旅は尋常ではない。
 行く先々で、国家元首や皇族・貴族、政治家・軍人・官僚、実業家、地方名士等の公式の歓迎を受け、市民等の大歓迎イベントが用意されている。連日各種の豪華レセプションが催され、ありとあらゆる公共施設、産業施設、軍事施設の見学がある。観劇等のイベントも続く。鉄道旅では地方の通過駅ですら停車し駅長、市長等による公式の歓迎イベントがある。もちろん要人とはしっかり対談している。まるで天皇陛下の海外公式訪問が600日間連続するような旅である。これに応える久米邦武がまとめた使節団の観察眼が鋭い。政治論・産業論はもちろんのこと地政学から文明論まで見るべき所を見、聞くべきことを聞き、感じるべきことを感じ、かつ比較論まで含めて記録している。西欧かぶれもなく、しっかりした日本や東洋との比較評価眼もある。この時の米欧世界の、冷静な日本視点からの壮大なスナップショットを構成している。こうした報告の明治政府への影響ははかりしれないものがあっただろう。いまさらながら明治政府のある意味での恐ろしさを感じる使節団の派遣と報告だった。
 引き続いた条約改正交渉のなかで、明治十一年、税率の引き下げに米国の同意を得るに至ったが英国がなお強く反対した。このときの英国公使パークスの主張『あなた方は税率の不公平は、日本国民の輿論であるというが、どういう手段で輿論を聞いているのかね。……どうして条約改正は国民の輿論だといえるのかね』、が日本政府を震撼させた。
 専政の政策をとり続けるわけにはゆかない。欧米からの文明国としての認知を得るために、大隈重信伊藤博文は西欧の事情に通じている渋沢栄一に、商法会議所の設立を依頼した。これに応えて明治十一年3月、東京府知事の許可を得て商法会議所を創立、東京府は新築の建物を提供、内務省から補助金が下された。渋沢栄一は会頭、益田孝と福地源一郎が副会頭に選ばれた。

 明けて明治十二年の夏、米国前大統領グラント将軍が来日することになり、渋沢栄一は商法会議所あげての歓迎を行うことにした。
 この将軍来日については、ドナルド・キーンが大著「明治天皇」において「グラント将軍、日本の休日」として一章を割いて感動的に描き出している。将軍が日本に残した言葉の数々、あるいは浜離宮で行われた明治天皇との2時間におよぶ会談など、これを読む日本人の心を打たないものはないだろう。今、浜離宮中島の御茶屋に入ると床の間にここで行われた歴史的会談の絵が掛かっている。茶屋の窓外に見える眺めは絵の中のそれと余り変わらない。この会談以降の日本と世界の関係の推移を思うと、ぐっと胸が詰まる。将軍は日本人のもてなしに心からの謝辞を述べ、日本の世界における間違いない発展を予言し、日本人に諸外国からの干渉を受けないように強く説いたのだった。
 津本陽はこの国民的なビッグイベントを、渋沢栄一の気持ちと、上野公園で行われた東京府民主催の空前絶後の歓迎宴を中心に、新橋駅での歓迎イベント、関連した夜会の様子などを含めて、長女穂積歌子の述懐を参照しながら実にいきいきと伝えている。
 虎ノ門の工部大学校講堂で大夜会があり日本の高官婦人、令嬢の参加が求められた。多くは当日の服装にとまどいながらぎこちなく参加した。素晴らしい洋食を楽しんだあとスクウェア・ダンスの場面になった。当初日本女性の踊り手はいなかったが、そこにひとり颯爽と踊り出て居並ぶ皆の目を見張らせた洋装の女性がいた。井上馨の令嬢である。三島由紀夫の戯曲や小説、「鹿鳴館」や「春の雪」を彷彿とさせる場面だ。
 グラント将軍は米国で岩倉使節団とは会っているが、渋沢栄一とは交流はなかった。渋沢栄一はその外交的感覚から将軍来日の意義を感じ、東京府民挙げてのこころからの大歓迎イベントを組織した。それは前大統領のみならず、日本国民、そして明治天皇の心に深く残る一事となり、日米関係を深めただけでなく、日本人、そして明治天皇に国際社会と交流してゆく大きな自信をもたらした意味で大成功だった。