実業バトル、海運から
津本陽「小説 渋沢栄一」下巻の中段にさしかかったところでいよいよ実業のバトルが始まる。最初の相手は岩崎弥太郎。あのNHK大河ドラマ『龍馬伝』での香川照之の熱演が思い浮かぶ。以下、津本陽に導かれて壮絶なバトルを追ってみる。
スペインのCadizで見た客船CRYSTAL SERENITY ファンネルマークに「二引」
話は海運業のはじまり。土佐出身の岩崎弥太郎はあくまでも個人専制支配による事業の進展を計った。岩崎弥太郎は波乱の生涯の中で土佐藩の経営する長崎、大坂土佐商会の権限を握り、維新期の混乱にまぎれ大利を懐中にする。そしてこれをもとに明治六年、三菱商会を独力で設立、本店を大阪、支店を東京において活発な活動を開始する。
日本における海運業は、まず明治六年、太平洋の海運業界を制覇する米国パシフィック・メール会社が横浜支店を開設して日本沿岸航路の独占を狙った。政府はこれを黙過せず、官営で日本帝国郵便蒸気汽船会社を設立して対抗した。船舶は廃藩置県で不要になった諸藩の老朽汽船をかき集めた。しかし官営の弊害、設備の不備で全く振るわず、明治七年2月の佐賀の乱での海運需要に対し、三菱商会に大きく遅れをとった。
次いで同年4月、台湾征討の役が起こると政府は汽船13隻を海外から購入したが、その運用は三菱商会に依頼せざるを得なかった。その後も郵便蒸気汽船会社の成績は振るわず、同社は明治八年に解散となっている。
その後政府は、アメリカ太平洋汽船会社に対抗するために三菱商会を徹底的に支援、社名を郵便汽船三菱会社として全力を傾けて米国社に競争を挑んだ。会社は成長し、三菱の勢力は三井家とともに日本財界のなかばを支配するに至った。
手厚い政府支援と猛烈な運賃競争でパシフィック・メール社は横浜上海の航路権、船舶、両港の地上施設など一切を三菱会社に売却して撤収した。三菱会社は運賃競争による打撃の中、上海航路を独占した。
すぐにライバルが出現する。東洋におけるイギリスを代表する会社、ピー・オー汽船会社が横浜上海航路を開始した。三菱会社は苦痛を堪え忍び猛烈な値下げ競争、8ヶ月におよぶ悪戦苦闘ののち、ピー・オー商会を航路廃止に追い込んだ。
前途無敵になった三菱商会はその後西南の役で莫大な利益を上げた。航路を拡げ、また事業も鉱山、銀行、海上保険、倉庫など大きく飛躍させた。そして追って独占・肥大の弊害が目に余るようになった。競争会社は妨害で成り立たず、運賃は高騰、船員は不親切、傲慢、横暴となった。
ここで渋沢栄一は個人独占の営業の放置は日本実業界に悪影響が広がると憂慮し、心ある人士、資本を集めてまず東京風帆船会社を設立、帆船というやや異なるサービス域から合本方式による挑戦を始めた。この事業は旺盛な海運需要や三菱会社の高価格政策にも支えられ、政界を巻き込んだ政府の支援もあって成長し、ついで、北海道運輸会社、越中風帆船会社の設立を生んだ。そして明治十五年、この3社を合併させ、一大汽船会社、共同運輸が誕生した。
そこから共同運輸と三菱会社の政界も巻き込んでの激烈な競争が展開された。たとえば東京横浜間の下等船客運賃が5円50銭から75銭に下がった。運賃引き下げが限界になるとスピード競争になり機関が爆発しかねない危険な状況を招いた。両社とも過当競争のあまり事業継続が難しくなりかけたところで、政府は農商務郷西郷従道の斡旋により両社を合併させ、ここに日本郵船会社が誕生した。明治十八年10月である。渋沢栄一はその推移を見極めただけで日本郵船の経営陣には加わらず絶縁した。これより7〜8年後、要請されて同社取締役に就任、ポンペイ航路など日本郵船の海外飛躍の実績つくりに貢献している。その姿勢はいつも私利にこだわらない国家経済の隆盛を指向したものだった。
「日本郵船」、現在の三菱グループの源流企業と言われ、連結売上高、世界第2位の海運企業となっている。保有船舶を識別するファンネルマーク(煙突マーク)は「二引」と呼ばれる赤の2本線、2社の対等合併の意を表す。まさにそれは日本産業界の両雄、渋沢栄一と岩崎弥太郎が手を携えて世界の海を疾駆する姿をシンボライズしているといえよう。
日本郵船には筆者もささやかな縁がある。政府に勤めていた曾祖父が日本郵船に転出し上海支店長、次いで横浜支店長を勤めている。上海に赴任したのは明治30年から3年間。その伝記を子供として一時期一緒に滞在した祖父が記している。その活動は海運会社の地域マネージャという範囲を超えて大変ダイナミックなものだった。各地をめぐって、情報収集、人脈拡大を図り、また当時上海は産業活動を世界へ展開する日本のアジア大陸への出入り口であったために内外の多くのVIPや使節団・派遣団・旅行団が通過し、これらの接遇を一手に引き受けていた。また曾祖父は漢詩人として知られていてこの機会に大いに詩作し、これを通して中国の識者と広く交流した。
日本へ帰任するときには盛大な宴が催され多くの漢詩人が集って送別の辞が寄せられたということである。こうした活動は横浜支店長になっても舞台を世界に拡げて続けられた。ちなみに曾祖父は尾張出身で幕末、名古屋藩の藩命で米国東部に留学している。当時彼の地には様々な日本人留学生がいて交流した。その中にあの五大友厚とともに秘密渡航した薩摩スチューデントの一人がいて、ともに帰国後明治政府に出仕、力をあわせて日本の近代化に大いに貢献している。皆、その持てる力を総動員して近代国家建設に努めていた。祖父の言葉を借りると、いわゆる「公に奉じた人びと」の躍動である。もちろんその間にたとえば漢詩の詩作のように自己実現も織り交ぜながら。
筆者は数年前にソフトウェア・エンジニアリングの国際会議参加のためスペインのCadizに短期間滞在した。欧州の西端、訪問者の感覚ではいわば地の果てに位置し、大西洋への出入り口になる中世の面影たっぷりの比較的小さなリゾート港町である。ある朝街に出ると突然狭い石畳の街路の正面の視野を前日にはなかった巨大な豪華客船が塞いでいるのに遭遇した。CRYSTAL SERENITY。近づいて青空の中に見上げた見事な白亜の船体のてっぺんにあの赤い「二引」が輝いていた。