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絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(10)

乾坤一擲の改革と創造

 明治三年そして四年、乾坤一擲、この時期、日本はまさに近代国家としての存亡を懸けた凄まじい闘いを展開していた。まず渋沢栄一がフランスで知った欧州各国政府の公債発行だが、それだけでは詳細が分からない。政府は大蔵少輔(しょうゆう)伊藤博文ほかをアメリカに派遣し、公債発行と国立銀行の設立法、金融政策の実施法、紙幣の現金への兌換法を把握する。調査報告は大蔵大輔(たゆう)大隈重信に提出されている。これが明治四年になって大蔵卿大久保利通、大蔵大輔井上馨の布陣で貨幣制度改革から着手された。「銀行」というバンクの訳語もこのなかで決まった。


尾高惇忠の生家=埼玉県深谷市下手計(しもてばか)=

 津本陽はこの時期の政策決定プロセスを渋沢栄一の言葉で伝えている。
 「なにしろ血気盛んな人々が、いろいろ研究したり、見聞した結果を、寄りあってたがいに論判するもんだから、ときには喧嘩とまちがえられるほどの討論もやった。……遠慮会釈のない書生交際で、思い切った討論をしては、はじめて方針がきまるのだから、実に愉快であったよ」

 明治政府は渋沢栄一達が欧州で見聞した近代国家に必要なありとあらゆる仕組み、機能、製品、インフラ、を創出、もしくは改革によって実現しようとした。現実にはそのほとんどすべての領域に旧弊からの既得権があり、またその優先順位、実現方法にも異論が生じ、革新官僚とも言うべき明治の俊英達はそれこそ不眠不休、物理的にも命がけで国家建設に駆け抜けた。
 さすがの津本陽もそのすべてを描ききることは出来なかったようだが、渋沢栄一が手懸けた代表的な事案をこれでもかというほど挙げ、当時の改革者達のエネルギーのほとばしり、そして日本のいわば「国家としての頑張り」を伝えている。
 まずはじめは電信と鉄道である。明治三年3月、渋沢栄一は電信機、蒸気車の製造について立案した。津本陽はその現代訳を掲載しているが結構長文で、渋沢栄一が欧州で見聞した状況と我が国の実情を対比し、その必要を訴える感動的な表現になっている。残念ながら電気と電信、鉄道車両の製造と鉄道輸送サービスの区別などは明瞭でなく、ようするに電気と汽車の重要性を説いている。
 この建議はイギリス公使パークスの支持を受け、大隈重信伊藤博文が鉄道企業計画を進めるに至る。そこから先が大騒ぎである。ここにプレーヤとしてイギリスが登場するのは、外債によって資金を調達するからだ。今年は東海道新幹線開業50年で特集番組が沢山あった。皆が知るように東海道新幹線世界銀行からの融資で実現された。1960年代の世界銀行は単なる融資だけでなく、新幹線の建設事業、その後の事業運営に多大な支援をしてくれたが、明治のイギリスは必ずしも善意だけの国ではなかった。外債発行をめぐりすったもんだがあったが、とにかく建設工事にこぎ着ける。
 外債の件で大蔵大丞上野景範、租税権正前島密がロンドンに派遣されたり、外債の抵当に関税や将来の鉄道収入が充てられていると伝えられると、大隈重信らが売国奴として命を狙われるなど不穏な情勢も招来された。鉄道敷設によって東海道の宿場の地主、旅籠屋、車曳き、馬力人足らは生業を失う。そこからの激しい反対、妨害もあった。このあたりの騒動は現代日本でもある程度想像できる範囲だ。

 そのあと、津本陽は「栄一の手がけねばならない仕事は、限りもなく雲のように湧き出てくる。」と表現している。
 度量衡の基準を定める。各官省の職員表の作成、俸給、旅費、賞罰規定の設定。各府庁の各課の構成の制定。水準の税を定める法令の新設。次いで前島密の建言で郵便法の制定と郵便事業の開始。東京、大阪間の蒸気飛脚船の開始。それまで東京、大阪間の蒸気船による運送は外国船だけで、日本船は旧式帆船だった。さらに貨幣制度改革、そして富岡製糸場の話がつづく。
 貨幣制度改革では先に述べたように伊藤博文ほか政府代表団が米国に派遣されている。もちろん渡米前に翻訳書でしっかり学習している。渋沢栄一はフランスのリヨンで大規模な紡績工場を見ている。富岡製糸場はフランス人技師を呼び莫大な費用をかけてフランスの機械を導入しヨーロッパ風に実現した。ここに主任として渋沢栄一の若き日の学問の師であり従兄の尾高惇忠が登場する。変な風評が立って女工集めに苦労し、率先垂範、尾高惇忠の娘も雇われた。その娘「ゆう(勇)」は今日世界遺産となった施設で多くの人に知られることとなり、尾高惇忠の名は初代の場長として歴史に刻まれることになった。
 そしてようやく明治四年、廃藩置県の大事業となる。これが出来ねば新政府のもとの統一国家にはなれない。今度のプレーヤは、木戸孝允岩倉具視三条実美西郷隆盛らである。これに、江藤新平後藤象二郎、そして伊藤博文大隈重信らが加わる。渋沢栄一は最初の手順である岩倉具視三条実美、両卿への「伺い書」の文案を起草することになる。結局これを何回か修正して「伺い」が行われ、それをトリガに新政府の中で一騒ぎ、そして合意形成、勅許を得て大号令発表となった。
 この大事業の中で渋沢栄一は実務官僚としての作文作業だけでなく、津本陽の言葉でまさに「不眠不休」、驚くべき役割を果たしている。廃藩置県のポイントはそれまで流通していた各藩の藩札の政府紙幣への引換えである。ここをちょっとでも間違えば大混乱、新政府は傾く。渋沢栄一は藩札を詳細に調べ上げた。その種類、なんと1,694種。その相場を布告の日の相場に固定し追って引換え、として一切の投機を封じ、これを実際に井上馨とともに実行した。もしこの日本に渋沢栄一がいなかったらどうなっただろうと思わせる歴史の一幕である。渋沢栄一が居てくれて有り難うと手を合わせたい気持ちになる。
 ここまでで津本陽の文庫本版「小説 渋沢栄一」は上巻がほぼ終わりに近づく。Wikipedia渋沢栄一を引くと「日本の武士(幕臣)、官僚、実業家」、と出てくる。そう、ここまでではまだ官僚だ。明治四年で31歳、92歳の逝去まで、官僚の仕事の締めくくりのあと広く知られた実業家としての、そしてさらに広範な活動が待っている。ここで次の飛翔に向けて、ちょっと筆を休めさせて頂くこととしたい。