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絶句、青淵、あまりにも偉大な(3) 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで

《行動の源泉》

 人の行動原理は様々だ。私利私欲、立身出世から世界平和の追求、あるいは、芸術・学術の探求、はては趣味としての人生、といったものまでいろいろあるだろう。もちろん一個人の中ではいろいろな動機が入り交じり、また変化もしてゆくのが人生というものだ。


渋沢史料館で(東京、飛鳥山
 
 渋沢栄一の場合、江戸時代の一地方豪農の跡取り息子から、明治政府の大蔵省に雇われるまで、その波乱の経緯の中に、その後、近代日本の国家骨格のすべてを創り上げたともいえる偉大な活動の行動原理が隠されているように見える。
 時代小説には、実際の歴史の流れの中にドラマチックな架空の人物が埋め込まれ、読者はこの架空の主人公と共にいわば時間旅行を楽しむという趣向が沢山ある。渋沢栄一を主人公とする物語はそんな展開がノンフィクションで進むのだから驚くほかない。TVの大河ドラマにしたら、最後に「この物語はフィクションです」というテロップのかわりに「このドラマは実話に基づいて制作しました」という注釈がつく感じである。
 商人兼農民の渋沢栄一武装決起を企てる勤王の志士になったのにはいくつかの複合要因がある。農民であっても撃剣の達人であり、藍の販売活動で地方を回るときに護身用に帯刀していた。その若き日の思想は、旺盛な読書や指導者との出会いによる学習が背景にあるが、直接的には剣術修行や商家としてあちこちを回る活動を通して、親戚・縁者、様々な人との交流から感化されて形成された。津本陽の小説ではわずかに17歳の時に年貢取り立てに村へ来た代官に対応し、このときの代官の権威主義的な態度に反発したエピソードが描かれている。ペリーの浦賀来航以来渋沢家には諸国往来の様々な尊皇攘夷志士が来訪し、議論を交わし、また書物に触れたとのことである。
 その中には阿片戦争の顛末を記した「清英近世談」という文書の和訳もあった。以前、松下村塾に関して、彼らは阿片戦争を戦った林則徐の書物を学んでいた、ということを読んだ記憶がある。調べてみたらこれは林則徐が友人の魏源に託した「海国図志」という大部の書籍だったようだ。こうした情報は当時の時代状況の中で心ある若者を行動に駆り立てるのに十分だったと想像される。

 渋沢栄一尊皇攘夷の行動は半端ではない。22歳のとき、父を説得して妻を残して江戸に2ヶ月半遊学する。儒者の塾に入塾し次いで千葉周作の道場に入塾する。24歳の時も今度は妻子を置いて4ヶ月の江戸遊学、その後も江戸へ出て志士たちとの交流を深める。そして文久三年、1863年の11月、遂に同志を募って軍備を整えて高崎城を乗っ取り、そこから横浜へ出撃して命をかけて大騒動を起こすことを企てる。
 武器は槍と刀で、実際に100振ほどの刀や80〜90枚の武具を調達し、決起の一党69人を確保した。もしこの義挙が決行されていたら明治の日本は渋沢栄一という逸材を得ることが出来ず、近代日本の建設はずっと遅れていたに違いない。この企ては最終的に先に紹介した渋沢栄一の師である従兄の儒学者・尾高藍香の弟で、江戸で知られた撃剣の天才、尾高長七郎の説得で中止された。
 尾高長七郎は京都を往き来し天下の動勢を把握していた。京都では8月に起きた七卿都落ち薩摩藩会津藩などの公武合体派が画策した8月8日の政変で失脚した尊王攘夷派の7人の公家が京都を追放され、長州藩へと落ち延びた)のあとで、尊王攘夷派は後退していた。
 この文久三年とは、どのような年なのだろう。

 Webサイトを叩いたら幕末年表があった。
 前年8月に生麦事件。時の将軍は紱川家茂、前年に一橋慶喜将軍後見職で上京。2月に会津松平容保京都町奉行になり、新撰組が京都の警備をはじめ、3月には将軍上京、5月に攘夷決行、馬関戦争で長州惨敗、7月に薩英戦争で薩摩大損害、8月18日の政変、七卿都落ち、9月にあの芹沢鴨暗殺、近藤勇が隊長に。まさに革命前夜、国家騒然の状況だった。池田屋騒動はこの翌年である。
 渋沢栄一一橋慶喜に仕え京都で活躍する経緯はやや複雑だ。義挙を前に家を勘当されるように図り、準備行動を隠蔽するために丁度巡り会った縁故で平岡円四郎という一橋家の用人の一人に何らかの形で一橋家に出入りできるようにしてもらう相談をしていた。このときは実現しなかったが、この平岡円四郎が8月18日の政変の後始末のために一橋慶喜が上京する機会に渋沢栄一に自分の家来として随行することを誘った。このころ一橋家では広く人材を集めていた。また当時は農民出身でも勝手に帯刀し尊攘浪士を名乗っていた者が多く、渋沢栄一もそんな一人だった。義挙を前に渋沢栄一はこの誘いを婉曲に断ったが、追って上京し世話になりたい旨含みを持たせた。
 義挙を中止し、幕府役人の探索も懸念される中、社会的に進退窮まった渋沢栄一にこのときの平岡円四郎との口約束が効いた。津本陽はこの約束を「命の綱となった」、と表現している。現代の日本にとって、それは一人渋沢栄一の命だけでなく、まさに近代日本の命の綱が繋がったことに相当する。

 このときの渋沢栄一は生きて国家に尽くすという執念と生き延びるためのある種の賢さ、そして柔軟性を併せ持っていた。上京し平岡円四郎の計らいで一橋慶喜内御目見という面接試験を経て、翌年2月一橋家の家来となった。役柄は奥口番、つまり奥の口の番をする。四石二人扶持、ほかに滞京手当がある。ここから一橋家を発射台とした渋沢栄一の波乱の快進撃が始まる。
 このあと渋沢栄一パリ万国博覧会の会場に立ち、そして幕府が倒れたあと新政府の日本に帰り、ついには大蔵省に出仕するまで、津本陽はいくつものシンボリックなエピソードを連ねてくれている。渋沢栄一はいったどんな心境で、いかなる考え方でこの時代を生き抜いたのだろう。
 一介の農民、あるいは商人としてその分を果たす、それは父親の価値観であった。ここから一段行動レベルを上げて尊攘の浪士として命を懸けた義挙、現代で言えばまさに過激派。それが結局は狭い視野の行動だったため、天下の動勢に通じた知人には説得されてしまう。そして今度は一橋慶喜という国家中枢中の中枢で働き、次いで政府代表の一員としての欧州生活1年7ヶ月、一挙に視野が広がる。そして想定されていたとはいえ幕府崩壊の現実、帰国して不本意ながら請われて明治新政府へ、ここから新国家建設のためにその持てるものすべてを投入した凄まじい活動が始まる。現代人にその心境を推し量るすべはないが、利己的な打算でもなく、ロマンチックな夢追いでもなく、流れに任せる無気力でもなく、そこには現代人には及びもつかない時代環境を超える強靱な骨があったと推察される。