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絶句、青淵、あまりにも偉大な(2) 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで

《時代環境と言い訳》

 いつの世にも一個の人間にとって、その時代を生き抜いて行くにはそれ なりの難しさがある。その困難さは相対的には時々によって大いに異なる のだが、一回きりの人生の個人にとっては、生を得たとき、あるいは社会 に出るタイミングでの時代環境が大きな問題となる。現代の日本では 20 年に及ぶ経済の停滞と、高齢化、人口減、あるいは厳しくなる一方の国際 環境を主要因として、先行き衰退に向かう国家の不透明さを憂う声を多く 聞く。最近は違うが、ちょっと前までは雇用情勢も良くなかった。生きて 行くにあたって、「こんな時代のこんな日本に生まれたから」という言いわ けには事欠かない。


青淵渋沢栄一像、東京、常盤橋公園

 が;、しかしそうした憂いは渋沢栄一の時代と比べると、笑止だ。渋沢栄 一は天保 11 年、つまり 1840 年、武蔵の国、利根川のほとり、二階に蚕部 屋のある大きな農家で生まれ、ここで育った。江戸時代、士農工商の身分 制度の中の農家であるが;、その家は父親渋沢市郎右衛門の才腕により、50 戸前後の血洗島という寒村で村内二番目の資産家だったということである。
 父親の才は商人としてのそれで、近隣の農家で栽培される「藍」の売買 を行う商家の事業に力を発揮していた。渋沢栄一には沢山の兄弟がいたが 皆夭折し、この商家兼業農家を継ぐ一人息子としてこの家業を学び、抜群 の能力を発揮した。しかしそのままでは渋沢栄一はこの豪農の家を守る、 あるいはいわゆる家運を高める、程度のことが目標となり、それを業績と するのがせいぜいだったろう。身分制度を脱皮することはもとより、商圏 を全国にひろげることすら夢見ることも難しい。まして世界を活動の場に することなど想像もつかない。
 しかしその後の経緯を概観するとこうだ;。
 渋沢栄一は家業に熱心なだけでなく、旺盛な学習意欲があった。父親に 教えられて5歳の時に倫理、道徳、天文、歴史、文学をわかりやすく説い た 「 三 字 経 」 と い う 3 0 枚 程 度 の 文 書 を 口 伝 方 式 で学び 、 次いで「 孝経 」「 小 学」「大学」「中庸」を暗記したということである。
 浅学の筆者はこれらを 知らないし、「中庸」以外は聞いたこともない。「三字経」や「孝経」はワ ープロの仮名漢字変換でも出てこない。隣村に漢学者になった 10 歳年上 の尾高藍香と称する従兄がいて7歳からここに通学する。ここで、5年、 様々な文書を熱心に読書した。尾高藍香が 14、5 歳の渋沢栄一に貸した本 に、浜田弥兵衛、山田長政など海外雄飛した人、明国復辟運動をした日中 混血の鄭成功の伝記がある、という。
 筆者はタイで活躍した山田長政しか知らない。そこで調べたら、浜田弥 兵衛は朱印船貿易で成果を挙げ;、台湾で利権を独占するオランダ東印度会 社とバトルしてここを自由貿易国にするのに成功した人物。鄭成功孫文蒋介石と並ぶ中国の三大国神の一人だ;。台湾海軍の一号艦の名前は「成功」 で、現在このクラスの軍艦を「成功級フリゲート艦」と呼んでいる。若い時の話題としてこのような3人の人物の名前が登場しただけで、その後の 展開を暗示させるゾクゾク感があるが、それはこの伝記作者津本陽の狙い を超えて、実際に渋沢栄一の生涯の伏線であった。ところで;、この尾高藍 香(本名淳忠)はのちに富岡製糸場初代場長として歴史に登場することに なる。
渋沢栄一は文武両道だった。父親は養子でその実家を継いだ伯父の子に、 渋沢新三郎という神道無念流の遣い手がいた。渋沢新三郎は著名な川越藩 剣術指南役の弟子で、後に免許皆伝となった人物である。渋沢栄一は幼い ころからこの新三郎に撃剣というのを習った。江戸時代末期でも、武家でなくとも多くの民が剣術で鍛えていた。一朝ことあれば国民皆兵である。 これが日本を西欧諸国の植民地化から救ったということを読んだことがあ る。ともかく渋沢栄一は自己評価で田舎初段、津本陽の評価で現代の五段 ぐらいの腕にあがり、家業が暇になる季節には 10 日ほど諸方を試合しな がら泊まり歩いたとのこと。これもまたその後の渋沢栄一の活動の伏線だ。
渋沢栄一の本業つまり家業の師は実父である。14、5 歳から力を入れた。 いわゆる田畑仕事は麦、藍つくりと養蚕。それに商売として自家製の藍の ほか他の家の藍を買い入れ、これを藍玉に加工し、信州、上州、秩父あた りの紺屋と呼ばれる染物屋、藍染業者に販売する事業が加わる。商いはあ とから勘定を取りに行く掛け売り方式だった。藍の栽培は農業だが、その 商いはこれに化学工業と販売業を兼ねあわせた相当複雑な総合的な業態だ った。津本陽の小説ではこの事業の中で発揮されてゆく渋沢栄一の才能が かなり詳しく描かれている。これもまた渋沢栄一のその後の活躍の大きな ベースとなった。
時代背景として渋沢栄一が 14 歳の時、嘉永六年(1853)、ペリーの浦賀 来航があった。そして歴史展開の中で、家業に励んでいたこの渋沢栄一が、 なんと勤王の志士として武装蜂起寸前にまで至り、それを思いとどまって、 そのあと縁あって、今度はあの一橋慶喜に仕える波瀾の展開になる。そし て新撰組が疾走する京都での活躍があり、そのあと一橋慶喜実弟、紱川 昭武に仕えてパリの万国博覧会に渡欧し、1年7ヶ月の欧州生活をするこ とになる。この間に明治維新、日本に戻って不本意ながらその能力を買わ
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れて今度は新政府の大蔵省に雇用されることになる。 この間、渋沢栄一は自分の進路にほとんど打算らしきものを持たず、ま
してや理不尽なかたちで自分を翻弄する時代の波を嘆いたり、不遇を時代 環境のせいにした痕跡がない。若き日は社会への純粋な気持ちから尊皇攘 夷の志士、今で言う過激派になり、その行動の無理を悟ると、今度は倒す べき相手だった開国幕府に仕え、さらに国際業務に従事、大きな貢献をし たのに今度はその幕府を倒した明治政府に雇われる。一貫して無私といっ てもよいが、この間の学習、自己研鑽や努力はもの凄い。そのモチベーシ ョンはやはり漠然とした「公」への貢献のように見える。
幕府の崩壊はかなり前から読んでいたが、利己的には動かなかった。藩 とか国あるいは政府といった帰属母体が混沌としていた時代、一貫して「公」 への貢献を潜在意識の中に強く持って、時代環境のなかでひたすら努力し た人物、それが渋沢栄一の一面だ。江戸時代、豪農とはいえ一地方の農家 出身のサムライ、その青年の目に時代環境はどう映っていたのだろう。そ の生涯を貫いたナショナルな行動原理の源泉はいったい何だったのだろう。 学ぶべき現代日本との共通項は見い出せるだろうか。