IT記者会Report

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ソフトウェアと社会

 ソフトウェアと社会というテーマの背後には、Immaterial Labor、ソフトウェアと文化、ソフトウェア産業論という言葉で表されるものが存在しているという。こう説明しているSS2014のホームページを眺めていたら、それなら私が現役時代位にずっと追い続け考えてきたことなのでなにか主張してみたくなった。
 Immaterial Laborは新しいイデオロギーを提供してくれた。全世界が自由民主主義という画一的な方向に進んでいる中で反体制標榜して労働の新しい形態から社会システムの在り方を考え直すものであった。資本と労働という対立概念に対して、労働が経営に参画するというあり方がクローズアップされた。それは需要と供給の関係が、つまり消費者と生産者の関係が変化したことに起因したことから発生した現象であった。
 リアルタイムで生産物を顧客の要求に応えなければならないという条件を満たすために、労働形態が変化したものと考えられる。しかし、この変化はマイナーなもので、資本と労働の関係は厳然として存在し機能しているのが現実である。ソフトウェアの労働はImmaterial Laborの一種であると叫んでも日本におけるソフトウェア労働者の劣悪な労働環境は一向に改善されないし社会的な地位と評価が変わらない。

 昔夢見ていたことがあった。ハードウェアがリキッドアーキテクチャになるのだから、その時のコンピュータ制作の主役はハードウェア家からソフトウェア家に代わることになる、というものだった。そうすれば、コンピュータ歴史上で初めてソフトウェアが主役になることになる。
 その日のために我々ソフトウェアは、目の前の仕事だけではなくて、あらゆる事柄に興味を示して研究開発に勤しまなければならない。だから、ソフトウェア産業論、ソフトウェアと文化の関係、民族と文化の関係、思想の核心にある論理学は民族や文化に独立であるか、などをテーマとして活動してきた。しかし、現実はリキッドコンピュータをはじめとしたハードウェアは主題にならず、専らCloud computingが当たり前という風潮になってしまった。関心事はアプリケーションプログラムの方に移行した傾向が強い。アプリケーションに重点を置くならば、システムズエンジニアリング的な思考と技術が必要になる。要求定義、組み込みシステム、テスティング、品質保証などが残っているが産業論という広い見地からみれば、ソフトウェアの本質にはならないと考える。

 ソフトウェアの本質は「ものを創る」という一点にあると考えるからだ。比喩的に示せば、ソフトウェアを言語に置き換えて考えてみればよい。以前がら、私はコンピュータは言語であると主張した来た。Computers as a language、つまり、Software as a language、である。言語と文化、言語と社会、言語産業論などが社会的なテーマとならないのは、それらの関係が自明だと諒解されているからだ。一方、言語は民族に依存している。社会は言語に依存した形態で形成されている。
 いま、コンピュータシステムは、映像と音楽を含めたマルチメディアとして存在している。ソフトウェアの意味するところは日増すに広がっている。一般社会では、ソフトウェアといえばソフトバンク楽天をイメージするとコンピュータに馴染みがない人々は口を揃えて言う。それはそれで仕方がない現象だ。しかし、我々ソフトウェアに従事していた、いや従事している者は、緻密な論理展開をソフトウェアに関して展開する義務がある。

 先ず、先ほど比喩として使った言語とソフトウェア(コンピュータ)の違いを考えてみる。言語は自然発生的であるが、ソフトウェアは人工的に作成された。言語にはアークテクトがいないが、ソフトウェアにはアーキテクトが必ず存在する。アーキテクトがいるということは、そこにはアーキテクチャと技術があるということだ。その原理は論理学である。言語は、民族と文化に依存しているが、ソフトウェアは人工的であるから民族と文化に非依存である。言語はすべての分野で使用されている。ソフトウェアもいまやすべての分野で使用されつつある。言語は使用するために対価を支払う必要がないが、ソフトウェアは一般的には使用するために対価を支払う必要がある。このような比較議論がソフトウェアの実態を顕在化させ、今後の方向を定めることができるのではなかろうか。
 仕事は社会的で公的な活動であり、価値を創造することが目的である。価値には、使用価値と交換価値がある。現代社会は交換価値つまり貨幣を稼ぐことが目的としたシステムを樹立した。しかし、東日本大地震のときに証明されたように、最終的には人類にとって使用価値しか意味がないことは自明である。我々はソフトウェアの使用価値について議論してもよい時機に来ていると考える。そして、使用価値と交換価値の関係を詳らかにしなければ将来展望がないと考えている。