この連載コラムを書きはじめたのは去年の1月だった.1年間が過ぎてみると,ほほ毎月4回ずつ書いたことになる.今年は,Moonlight Painting に力を注ぐつもりなので,コラムの執筆速度は半分くらいに落ちるだろう.長かった正月休みとそのあとの3連休を利用して,いろいろな書物に目を通したので,このあとしばらくはその読書経験から受けた刺激をベースに,ソフトウェアとコトバとの関係について書いて行くことにしたい.
昨年,インターネット上で差別問題に関する議論に参加する機会があり,書棚に眠っていた何冊かの書物を再読した.そのうちの1冊が『差別という言葉』(明石書店, 1992),これは,構造主義生物学者の柴谷篤弘・池田清彦両氏の往復書簡に対して言語学者の田中克彦,哲学者の竹田青嗣がコメントを書き,最後に4人の座談会記録を収めたもの.出版されてからかなり時間が経っているが,今日までまだ続いている差別用語問題の多様な側面を取り上げていて,知的刺激に富んだ興味深い議論だとあらためて感じた.
田中克彦さんが,コメントの冒頭で「そもそも進化論とは差別に理論的根拠を与えた学問であり,その意味で生物学者のおふたりが差別問題に関心を抱かれるのは不思議ではない」と述べている.進んだ文化・遅れた文化という対比から,進んだ民族・遅れた民族という図式を設定し,遅れた民族は進んだ民族に吸収されなければならないという思想を確立したのがエンゲルスの科学的社会主義だった.ソビエト連邦が崩壊したことの根源には,ロシア人のこうした独善に対して非ロシアの諸民族の怒りが爆発したという事情があるというのが,田中さんの指摘である.いささか乱暴だがおもしろい.
わたしが田中克彦さんの書いた本を最初に読んだのは,『ことばと国家』(岩波新書)だったと記憶する.いわゆる標準語というものが,軍隊と並んで近代国民国家を支える手段として位置づけられるという事実を教えられた.標準(英語の Standard)が軍隊由来の単語だと知ったのはそれからしばらく経ってからだった.いま,わたしたちの周囲には国際標準(ISO-XXXX)とかいう単語がいくつも飛び交っているが,いつの日かやって来る宇宙戦争に備えてこの惑星全体をひとつの国民国家として統一しようという意図がその背景にあるのだろうか(笑).
かつてシステム・プログラミング(コンパイラ開発)の理論的基礎を探ろうとして,変形生成文法理論を勉強していたころ,その熱気に水をかけて冷却してくれたのも田中さんの『チョムスキー』(岩波現代文庫)だった.社会言語学の立場から生成文法理論を批判したこの本の内容は,日本の言語学界では毀誉褒貶さまざま,という否定的評価が多いようだが,著者一流の断定的な語り口がわたしには好ましく感じられた.
田中さんが差別問題を直接論じた書物としては『差別語からはいる言語学入門』(ちくま学芸文庫)がある.そのまえがきで,差別の源泉であるコトバが持っている特性についての記述がある.おおよその解釈をわたしの理解にもとづいてまとめておこう:
――コトバは誰もが話していて,その使い方は,いわば基本的人権としてすべての人に与えられている.しかし,実際には,話しコトバのほかに書きコトバというものがあり,それを訓練する機会に恵まれた人とそうでない人との間には大きな差がある.この違いには,内容にかかわる本質的なものと,内容とは関係のない表現方法の差とがある.後者の格差を縮めることが、コトバによる差別をなくす上で重要なことである.
すべての近代国家は,そうした格差が広がらないように,文字の習得を容易にし,書きコトバをなるべく話しコトバに近づけるなどの運動を続けてきた.そこでの大きな問題は,そうした運動のすべてが,日常ふつうにコトバを使っている一般大衆ではなく,文筆を生業とする作家や評論家などの「言語エリート」の手にゆだねられてきたことである.その結果,コトバ全体が古めかしく権威主義的なものになってしまう.そうした姿勢で行われるコトバの教育は,民族的アイデンティティの確立とかいったイデオロギーで人びとの心を縛るという副次的な効果をもたらす.それは,ある民族が周辺のより強力な民族勢力からの脅威を感じた場合に生じる「引きこもり自己防衛」の現象にほかならない.
もともとコトバは,それを話すことができるすべての人のものであって,決して言語エリートの占有物ではない.したがって,あらゆる人が,コトバの問題について発言し要求する権利を持っているのである.ところが現実には,そのようなかたちで議論を進めることはなかなか難しい.多くの人びとは,言語エリートたちがかれらの必要や趣味にもとづいて定めたルールをありがたくおしいただき,学校教育を通じて配布されるさまざまなしきたりに従うことを無意識のうちに強制されている.
現実の社会におけるコトバの支配関係は,おおよそこのようなかたちになっているのだが,しかし,コトバのもつ力を底辺から支えている一般の話し手や書き手がいなければ,コトバそのものも言語共同体も成り立ちえないのである.そういう事情を考えると,社会的あるいは肉体的な差別を受けている人びとが,「これこれのコトバを使ってほしくない」と声をあげた出来事は,人類の言語史の上でほとんど考えられなかった珍しい現象だったといえよう.
この文章で,「コトバ」という単語を「ソフトウェア」に置き換えてみたら何がいえるだろうかと,わたしはふと思ったのだった.
ソフトウェアもコトバと同じように,それを書いたり使ったりするすべての人のものであって,特定のプログラミング言語や開発方法論に熟練した「ソフトウェア・エリート」の占有物ではない.にもかかわらず,現実には,ソフトウェアに関するほとんどの議論は,これまでソフトウェア・エリートたちに独占されてきた.そのことから生じるさまざまな問題について,これから考察して行きたいと考えている.