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私の「犬島」紀行(2)

 遙か昔に風化して屋根の無くなった沢山の煉瓦状のブロックを積み上げたさまざまな壁の建物跡が連なる。壁を構成するブロックが凄い。表面は黒色で何かを溶かし固めたような複雑な文様で、大きさは見慣れた煉瓦よりずいぶん大きい。


それは見たこともない大迫力の産業遺構だった

 精錬所跡、それは見たこともない大迫力の産業遺構だった。このブロックの壁は高低様々で、光の向きにより光沢が異様に変化する。黒いブロックは壁だけでなく地面にもびっしり敷き詰められている。このような構築物群の奥に赤煉瓦で作られた円筒形、あるいは八角形の高い煙突が聳え、そのうちのいくつかは半分崩れていて、雰囲気たっぷりの廃墟の様相を呈している。
 こうした大迫力の遺構の真ん中に、一つの円筒形の大煙突を中心に遺構群に埋め込むようにモダンアートの美術館が作られている。建築家、三分一博志の作品。テーマは自然エネルギーの活用。
美術館の入り口でかなり暗い前室に案内され簡単な説明がある。この先の通路が真っ暗なのでここで目を慣らすこと、ここは全館電力エネルギーや動力を一切使わず、自然の力だけで空調、採光している実験施設になっていること、美術館はアーティスト柳幸典の三島由紀夫をモチーフとしたアート環境になっていることが説明される。あの三島由紀夫がモチーフだ。目が暗さに慣れたところで、多少わくわくする気持ちを抑えて次へ進むとそこは正面と真後ろにだけ光源のある細くて黒い、長い長い一直線の不思議な回廊だった。正面の光源が何であるかはそこに辿り着いたときに明らかになる。それはまるで今来た現世と、これから訪ねる別世界を隔てる神聖なプロセスのようにも感じられた。
回廊を抜けたところで、大きなアート空間が現れる。精錬所の遺構や吹き抜ける風を活用し、少し前の日本家屋の部品を素材にした大規模な現代アート表現である。一通り鑑賞して次室への出口のところで再び簡単な説明がある。このアートは「ヒーロー乾電池」というタイトルで、素材は実際に三島由起夫が戦前、戦後しばらく住んでいた家のものということだ。
それなら知っているぞ。三島由紀夫の最初の作品は「花ざかりの森」、小さいとき、徳川幕府末期の旗本、あの五稜郭でも戦った永井玄蕃頭の孫にあたる祖母に可愛がられ、幼少の時から芝居見物、それが後に戯曲や小説に開花した。三島由起夫がモチーフなら次の部屋からはその華麗な文学の世界を素材としたアートが続くのではないか、と想像する。ここは海だから、なんと言っても「潮騒」、いや「午後の曳航」かもしれない。もちろん「春の雪」や「暁の寺」なんか扱われているのかもしれない。いや「奔馬」かな。説明を聞いてからもう一度このアートをしっかり鑑賞した。「ヒーロー乾電池」は実際にアートの中にあった。作者はこれで何を感じて欲しいのだろう。

次の小さな部屋へ抜けて

 驚いた。
 そこのアート・モチーフは確かに三島作品ではあるが、その中でもっとも強い言葉を選んでこれを表現していた。作者はこれが言いたかったのか。さらに次の部屋は強烈である。そこは一転して天井を含めて四面ガラス張りの広い温室のようになっていた。アート作品はその真ん中にあった。そのモチーフはもう文学作品ではない。あの三島が命を掛けて訴えたメッセージそのものだった。今、ここで、こんなときに、こんなメッセージを浴びせられるとは、平静を装いながらも、胸がつまる。アートとはこういうことなのか、こういう力があるのかと思う。
 ここからガラスばりで見える次の部屋で一人のおばあさんが待っていた。「あんたたちどこからきた、しっかり見てきたか?」といった感じである。
 美術館に依頼された説明員。この島に7歳の時から住んでいる。御年80歳。実に沢山のことを教えて頂いた。この島は昔は花崗岩石切場で、数千人が住んでいた。切り出された石は姫路城でも大阪城でも使われている。
 「あんた達この石がなんだか知らないで帰ってはだめだよ」
 「今、質問しようと思ってたんですよ」
 「これは銅の精錬滓を型に入れて作ったもので、成分の六割はガラス、四割は鉄、一個の重さが22kg」
 「夏に日向では摂氏70度になり、皆この上を下駄を履いて歩いた。反対に冬にはものすごく冷たくなる」
 いやはや大変な建築素材だ。銅の精錬所以外では使われないわけだ。
 「ここで銅が採れたんですか?」
 「馬鹿言っちゃいけない、銅は皆よそから持ってきた。精錬所だけが移ってきて、そして何千人も働いていた。精錬所から出る亜硫酸ガスなどの鉱毒がひどく、この島だけでなく周りの島にも一木も無い状態だった」
 つまり猛烈な環境破壊のため、やっかいな精錬所をこの島に持って来たわけだ。鉱毒事件は足尾銅山だけのはなしではなかった。
 「精錬所は公害がひどくてやめたのですか」
 「とんでもない、第一次世界大戦が終わって銅の価格が暴落、事業を続けられなくなって設備ごと放棄された。精錬所があったのは10年間。」「当時は皆、掛けで買い物をしていたから、一晩で支払い・回収不能になり、多くは夜逃げした」
 うーん、強烈な歴史だ。
 このおばあさんは三島ファンではないらしい。
 三島作品は「仮面の告白」と「英霊の声」を読んだがどちらにも共感できないようだった。
 「もっと美しい作品がありますよ。「潮騒」なんかどうですか」
 としばし三島談義。
 市ヶ谷台での自決時の介錯人が下手だった、という血なまぐさいはなしになった。
 「僕は三島由起夫の講演を聴いたことがあるんですよ。そのときの司会が森田必勝でした。三島さんは大学で3回講演しました。東大、一橋大、そして早稲田。僕は早稲田の時に聴きました」
 それまで、あんたたちは何も知らんだろう、というような調子で滔々と説明していたおばあさんが、このとき、
 「ほお」
 という表情になった。
 「森田さんの介錯は下手だったが、その森田さんを介錯したもう一人のひとは見事だったと伝えられていますよ」
 いやー凄い話になった。このおばあさんは、ここの煙突の周りが海からの風で涼しいことは皆知っていて、ここで働く人が夏の昼寝場所に使っていた、今回の建築家はそれを活用した、アート作品のあるガラス張りの部屋は冬は暖かい空気をつくって館内に送り込む仕掛け、夏はガラスを開けて涼しい空気を吸い込む仕掛けになっている、子供の時は高い煉瓦壁の上を平気で走り回っていた、この島ではいくつも映画が撮影されたがエキストラで出演したこともある、などなど、はなしは尽きず、思わぬ時間を費やすことになった。
 あとで美術館の人に伺ったが、このおばあさんは「犬島の生き字引」といわれている方だそうだ。

美術館を出て

 精錬所遺構をあちこち探索した。そのスケール、ここにあった歴史を語る構築物の物理的な迫力にあらためて圧倒される。発電所跡があった。こちらは赤い煉瓦づくり。外壁だけが残っているのだがそのドイツ直輸入の形状には見覚えがあった。昨年プラハからドレスデンへ列車で移動したとき途中駅毎に転々と放棄されていたあの煙突のある煉瓦建築だ。これらは旧東ドイツの遺構だったのだろう。こんなところで出会うとは。
 「犬島」にはまだまだ見所がいっぱいある。アートディレクター長谷川祐子、著名な建築家ユニットSANAAを主宰する建築家、妹島和世による犬島「家プロジェクト」だ。これは島の集落のいくつかの家を建築家が小さな美術館に改装し、そこに、あるいはその周辺にアーティストを呼んでモダンアートをいっぱい制作したものだ。
 訪れる人は個々の作品はもとより、高低のある村の道を自然に歩きながら目の前に展開するアート空間がとても新鮮で、素直に楽しくなる。妹島さんの建築は多くはガラスを多用した直線構造で、「直島」の港でも、そのガラスの大規模施設が出迎えてくれた。筆者も、住んでいる芝浦、旧海岸通りで一目でそれとわかるガラス建築に見慣れていたが、ここでは違った。「犬島」での作品は瓦屋根、木造で島の旧家風でもあるが、それでいて何となくモダンなのである。もちろん島の風光とあわせて鑑賞するのにぴったりだ。 
 そのほかにも島のあちこちに楽しいアート作品が点在していた。これらに感心しつつ、精錬所で予定外の時間を費やしたので、時計を気にしながら次の「豊島」への船へ急いだ。

何なんだ、この島は

 現代日本が苦難の末に到達した、もの凄くこころ豊かな、贅沢な、自然景観とアートと人間の営みの空間。世界中からそれを感じようとする人を惹きつけてやまない現代のアート環境。が、しかし「犬島」に集積された「もの」、「こと」の重みは計り知れない。
 遡れば戦国時代になる石切場花崗岩採石産業としての繁栄。明治、富国強兵、殖産興業、あるいは軍事産業としての銅精錬所の繁栄。猛烈な鉱毒と環境破壊。景気循環による経済の壊滅と産業放棄。島人口50人への過疎化と高齢化。そしてアート環境としての再生努力。そのなかでのアーティスト、建築家達の多彩で強烈な表現と主張、そして国際観光スポット化。そこに見えるのは、まさに幾多の苦難を超えてゆく人々の振るまい、そして歴史の連続性そのものだ。
 ふと思う。
 こうした激烈な人間の営みの積み重なりは「犬島」だけなのか?
 いや、隣の「豊島」にも多難な現代史があった。「直島」の歴史と現在の到達点にも凄いものがある。近くの瀬戸内には呉も、江田島もあれば広島もある。いや「日本列島」全体が、こうした、人々が力を合わせて苦難を克服し、自然の中に人間性を求めていく大空間なのではないだろうか。いつの日か、日本列島全体が、瀬戸内の島々のように世界の人々を物理的にも心の中でも惹きつける時代が来るのではないだろうか。
 短い旅の帰路、「直島」から「宇野」へのフェリーで、離れゆく外観はまことにおだやかな島々を眺めながら、この場所は「瀬戸内」を楽しむとともに「日本列島」とそこで生活を営む人間を、歴史の積み重ねの中でじっくり考える空間なんだ、と思った。表現の場を得て渾身の力で頑張るアーティスト、アーキテクト達に感謝である。