ソフトウェアの実体は,なんらかのデータ処理プロセスの記述である.それは,当然のことながら時間の要素を含んでおり,ある種の構造を用いて時間の流れ(経過)を表現するかたちになっている.しかし,「構造」の概念はあくまで空間的なものであり,もともと時間の要素は含まれていないので,時空のバランスをどのように考えればよいのかが,ソフトウェアを設計するさいの重要な問題になる.
『論語・子罕篇』に記されている断片がある:あるとき,孔子先生は河のほとりに立ってつぶやかれた,「時間は,このように,昼夜を区別せずに流れ去って行く」と(原文は:子在川上曰,逝者如斯夫,不舎昼夜).
このつぶやきは,詩的メタファとしてはきわめて美しく,時間について語る場合,多くの人びとに引用されているのだが,しかし,本質的に間違っている.時の流れを河にたとえた場合,その河幅はわれわれの目には見えないくらいに広いので,その河岸に立つという状況は絶対に考えられない.われわれはつねに一定のスピードで流れている河の真中に浮かんでいるのであって,それが流れているのかどうかさえわからないというのが現実なのである.
認知意味論の哲学者ジョージ・レイコフは,マーク・ターナーとの共著『詩と認知』(紀伊国屋書店 1994, 原題は “More Than Cool Reason”)において,われわれが時間を擬人化するさいに用いるメタファ(隠喩)を大別して;
1.時は変化をもたらす者である.
2.時は動く.
3.時は追跡者である
という3種類をリストアップしているが,「時の流れ」という死隠喩(日常的に使い古された Dead Metaphor)はそのうちの第2のカテゴリに入る.そして,その流れの方向は,われわれの前方すなわち未来からこちらへ向かっている.したがって,流行り唄の歌詞にあるように「時の流れに身を任せた」場合,われわれはどんどん過去に流されていってしまうのである.
20世紀日本が生んだユニークな思想家・大森荘蔵は,点時刻の集まりとしての直線的な時間座標の存在を否定した.そうしなければ,有名なツェノンのパラドクスを解くことができないという趣旨なのだが,その理論の詳細は大森の著書『時は流れず』(青土社 1996)に譲ることにしよう.
わたしが興味を覚えたのは,その本のなかで,過去とは「語り存在」だと大森が提唱したメタファである.時が流れるか流れないかにかかわらず,未来はわれわれの前方にあり,まだ現在に到達していないので,われわれの目には見えず,予測することなどできはしない.すなわち,未来について考えるさいに,われわれはつねに過去を振り返って,その「語り」に耳を傾けざるを得ないのである.
北村太郎が残した次の小さな詩は,そうした語り存在としての過去が,本来定常的な時の流れの速度(時速1時間に決まっている!) を,われわれの主観が気まぐれに変更するメカニズムを見事に表現しているように思われる:
部屋に入って 少したって
レモンがあるのに
気づく 痛みがあって
やがて 傷を見つける それは
おそろしいことだ 時間は
どの部分も遅れている
これまでに提案されたすべてのソフトウェア・プロセス・モデルは,そうした過去の語りをまとめて加工したものであり,いわゆるベスト・プラクティスなるものは,典型的な語りをお化粧直して耳ざわりをよくしたものでしかない.そうした過去の語りにこだわっている限り,プロセスの大幅な改善や革新を試みることなど,とうてい不可能なであろう.
「ソフトウェア・プロセスもまたひとつのソフトウェアだ」とは,リー・オスターワイルの名言であるが,だとすれば,ソフトウェア・プロセスの構造について考えるさいに,時の流れという孔子流のメタファを捨て,語り存在としての過去の呪縛から身を解き放つことが必要なのではないだろうか.
そのとき,われわれにはどんなメタファが役立つのかは,まだよくわからない.もしかしたら,田村隆一の初期の作品「三つの声」がヒントになるかもしれない.
その声は遠いところからきた
その声は非常に遠いところからきた
というフレーズで始まるその詩は,次のように時間の逆転で締めくくられている:
その声をきいて
ついにわたしは母を産むであろう
その声をきいて
われわれの屍体は禿鷹を襲うであろう
その声をきいて
母は死を産むであろう