禅における悟りの表現として,宋代・黄檗宗の禅僧・青原惟信(Qing-yuan Wei-xin)の述懐がしばしば引用される:
わたしが参禅する以前,山は山,水は水にしか見えなかった.禅の道に入り修行を積んで行くうちに,もはや山は山でなく,水も水ではなくなってしまった.…. しかし,その後さらに座禅を続け,より深い悟りの境地に入ったいまでは,ふたたび山は山として,水は水としてわたしの眼前にある.
このコトバが意味する哲学的ニュアンスについての詳細な分析については,ここでは触れない.興味のある方は,たとえば井筒俊彦の名著「意識と本質」(岩波文庫)をお読みいただきたい.
わたし自身の Moonlight Business である美術の分野に素直に直訳すれば,悟り以前の状態は目に見えるものをタそのままブロー上に再現する具象絵画の世界,何を描いたのかわからない抽象絵画は悟りの初期の段階だといえるかも知れない.しかし,タブローに描かれているものが何かがわかるか否かで具象と抽象を区別するのはあまりにナイーブな(誤った)鑑賞法だと,青原惟信和尚は指摘してくれているのだった.
さて,わたしの Daylight Business の分野に目を転じると,そこでの同僚であるコンピュータ・プログラマたちは,本質的に受身で仕事に立ち向かうという奇妙な習性を持っている.かれらの仕事は,何らかの問題を解決するプログラムを書くことなのだが,その問題はプログラマ自身が抱えているわけではなく,どこかのユーザから依頼されるかたちで仕事が始まるという事情があるからだ.
プログラマは,やむなく,自分にとってほとんど未知の問題領域(ドメインの世界)に引き込まれることになる.与えられた問題の解決法が一緒に提示されている場合には,ただそのアルゴリズムを適切な言語を用いて表現すればよい.しかし,そんなケースは稀でしかなく,ユーザと一緒に対象ドメインの構造を分析し解法を探索するという破目に陥ることが多い.こうして次々に与えられるプログラミング問題は,ヴァラエティに富む「山」や「水」を含んでいる.毛沢東が詞に書いたように「江山はまことに多嬌」であり,多くのプログラマたちは,その魅力に絡めとられて膝を屈し,それぞれのドメインのコンテンツから独立したアルゴリズムの構造やその実行プロセスのあり方を考えるという本来の仕事の目的を,いつのまにか忘れてしまうのだ.
アプリケーション・ドメインの分析や設計を担当するアナリストやデザイナのほうがプログラマより偉いという職業評価の序列はいつ決められたのだろうか.江戸時代に遡る「士農工商」という社会的ランク付けがいまだに尾を引いているのかもしれない.そうした価値観にしたがえば,プログラマの仕事は「士農工商」の枠から外れた網野善彦のいう「無縁の衆」いわば「穢多・非人」のランクに位置づけられることになってしまう.プログラマたちが,アナリストやデザイナを目指す「出世コース」の道を選ぶのは至極当然の成り行きであろう.
しかし,どんなにすぐれた問題分析も,どんなにエレガントなシステム設計も,それを何らかの言語で表現したプログラムがなければ,実際にコンピュータを動かすシステムとして実現することができないという事実を忘れてはならない.特定のアプリケーション・ドメインとは独立に考えられたソフトウェア・システム群(プログラミング言語とその書法,さまざまなユーティリティ・ツール,そしてオペレーティング・システムetc)が,「山は山でなく.水は水でない」世界をかたちづくっている.その土台の上に,それぞれのドメインを対象とするアプリケーションが,「ふたたび山は山,水は水である」ようなシステムとして構築される.
その意味で,「ソフトウェアは世界をモデル化した一種の機械である」というマイケル・ジャクソンの指摘は正しい.ただし,対象としての世界は常に変化し続ける.ミハイル・バフチンがドストエフスキー文学の分析論文で述べたように,この世界には最終的なことはまだ何ひとつ起こっておらず,世界の最終的なコトバ,世界についての最終的な言明はまだなされていない.世界は開かれていて自由である.いっさいはまだこれからなのであり,つねに前方,すなわちわれわれには予測不可能な未来,のなかにある.
ロックバンド頭脳警察の持ち歌に『さようなら世界夫人よ』という曲[*]がある.「世界はガラクタの中に横たわり,かつてはとても愛していたのに」と唄い出されるその唄の第2連は次の通り(原詩はヘルマン・ヘッセ):
♪世界は ぼくらに 愛と涙を
絶えまなく 与え続けてくれた
でも ぼくらは きみの魔法には
もう 夢など持っちゃいない
さようなら 世界夫人よ
さあ また 若く艶々と身を飾れ
ぼくらは
きみの泣き声ときみの笑い声には
もう飽きた多嬌な江山の魔力から逃れるための貴重な呪文のように聞こえる.
[*] ネットで視聴できるライブ映像は:http://www.youtube.com/watch?v=ruD8a5glZ38