東日本大震災・被災地を行く(5)

八光建設・宗像社長へのインタビューは別稿で読んでいただくとして、実査チームが昼食を取った複合展示施設「LABOTTO」のことだ。ここもまた震災から免れなかった。同社のフラグシップ的なモデルハウス「しもくの家」は塗り壁の一部が剥落していた。インテリア展示場では棚から商品が次々に床に落ち、陶器やガラス製品が粉々に砕け散った。

 電気、ガス、水道が止まったためレストランは休業を余儀なくされたが、地震発生から1週間後の3月18日に販売数限定のお弁当の販売をスタート、次いで限定メニューの「福幸ランチ」を出した。「復興」にかけたネーミングだ。
 そのあと案内してもらった市内にあるもう一軒のモデルハウス(震災で郡山市に足止めされた仙台支店の社員の仮宿舎となっていた)は敷地に10cmほどの段差ができ、その段差が隣接する住宅やアパートの地盤に真っ直ぐ伸びている。モデルハウスの玄関敷石が割れ、屋内の石壁と埋め込まれた暖炉が傾いていたが、見方によってはラッキーだったのだ。そこで束の間の”避難”生活を送っている仙台支社の社員が説明する。
 ――そこが地震の破壊力を吸収してくれたので、基礎は無事だったわけです。また伝統工法の木組みが揺れを吸収したので、躯体に歪みはありませんでした。敷地の段差と敷石の補修だけなら 数十万円といったところでしょうが、石壁と暖炉を元に戻すとなると、ちょっとした工事になるんじゃないでしょうか。
 ――そろそろ次の会合に出かけなけりゃならないので。
 と宗像社長が去ったあと、20分ほど実査チームはモデルハウスにとどまっていた。移動は15分ぐらいだったが、駐車場になかなか入れない。FSK(いわき市御厩町、従業員50人)の鬼澤浩正社長と約束していたS−PAL(エスパル)郡山「カフェ杜の香り」で14時半」に10分ほど遅れて到着した。エスパル郡山というのはJR郡山駅ビル、そのショッピングモールのことだ。

 鬼澤氏はこの日、郡山市で行われた知り合いの葬儀に参列するため、いわき市からやって来ていたのだった。紹介してくれたNSD会長の冲中一郎氏によると、同社は原発1号機が水素爆発を起こした翌日、従業員とその家族約180人をバス7台に分乗させ、いったん熊谷市に退避したという。聞きたかったのは、そのような決断をしたプロセスと今後の展望または方向性だ。
 ――さいたま新聞の記事、読みました。同じ埼玉県に避難していた双葉町の方々をサポートなさったそうですね。
 これに対して鬼澤氏は言う。
 ――そのことは、あまり話したくないんですよ。
 ――なぜですか? 従業員あっての会社、家族あっての従業員。「人こそ財産」という経営理念を端的に示すいい話じゃないですか。
 ――いや、まあその話はいいじゃないですか。業務の継続に必要な人員を残してましたから、お客様にご迷惑は一切かけてませんし。
 鬼澤氏はそれ以上話さなかった。筆者の想像だが、ユーザーから「FSKは逃げた」と指弾されることを心配しているのか、あるいは事情を知らない人々に「いわき市は危険」という印象を与えるからなのか。そのことは詮索すまい。
 ――それ以外のことなら、何でも。ただお答えできる範囲で、という条件付きですが。
 そのことは詮索すまい
 ――じゃ、震災発生のときのことを。鬼澤さんはどこにいらしたんですか?

 鬼澤氏によると、そのとき同氏は3階の会議室にいて、3月末決算の書類を整理していた。まず横揺れがゆっくり来た。
 ――カタカタカタッ、っていう感じ。ところが揺れがどんどん大きくなっていって、コート掛けが倒れそうになったものですから、それを支えようと思って立ち上がったまま、動けなくなりました。
 なぜコート掛けを押えたのか、自分でも分からない、と鬼澤氏は苦笑する。
 揺れは3分ほど続いた。収まるのを待って外に出た。ビルの前に全社員が集まっていた。全員の無事を確認してから、その場で次々に指示を出した。
 ――当社の主なユーザーは浜通り福島県の太平洋沿岸)の町村で、福島総合計算センターの名で設立してからずっと、システム開発と情報処理を受託しているんです。南相馬市と東京の新宿に事業所がありまして、すぐ客先や事業所に連絡を入れて、状況を確認したり対応策を協議しました。
 室内の床は棚やロッカーから飛び出した書類で足の踏み場もなかった。連絡を取り終わったころ停電になり、ネットワークが途絶えた。からくもつながる携帯電話のメールが頼りだった。
 ――当社のビルはコンピュータ・システムに対応した耐震構造なので、陥没した敷地と30㎝ほど段差ができた以外、建物本体は被災していません。電気とネットワークが回復するまで手が空いた社員は被災した方々の支援に入ったんですね。
 自治体の業務を熟知していることから、同社の支援活動は避難所の名簿作りが中心となった。無傷だったパソコンを避難所に持込み、町村職員と相談してフォーマットを決め、避難してきた人たちの情報を打ち込んでいった。
 ――どこに何人避難しているか、最初のうちはそれすら分からないわけです。地震津波、さらに原発事故の放射能漏れが重なって、行政職員の手がとても足りない。そこで当社の社員があちこちを回って、情報を収集するお手伝いをしたんです。
 支援活動とはいえ、同社の場合は取引先町村の業務の一部を肩代わりするようなものだ。しかも住民の情報処理にかかわる業務なので、鬼澤氏は「契約の延長線上にある」と考えた。つまりボランティアでの支援でなく、本来業務に位置づけたのだ。これによって社員の意識が変わった。お手伝いではない、ということだ。
 住民にかかわる情報のうち、基本4情報(氏名、住所、年齢、性別)は住基ネットの地域センターにバックアップが保全されていた。地震の発生直後から地方自治情報センターが市町村ごとにまとめて、当該市町村のデータ形式に戻すシステムの開発に着手し、当座の個人確認に提供した。また受託計算を行っていた同社のサーバーにも、直近のデータが保存されていた。
 ――住基ネットの基本4情報と当社のバックアップデータを突合すれば、ある程度、データは復旧できると思います。ある程度、というのは、なかには紙の台帳もコンピュータ・データも完全に失われたケースがあるのではないか、ということで、あくまでも私の想像です。当社の場合でいうと、業務を困難にしているのは名簿のフォーマットと原発事故です。
 何十、何百の避難所で個別に名簿が作成された結果、フォーマットも記載内容も異なるデータが何十、何百と生まれてしまった。それを一つひとつプログラムで変換して統合し、その上でバックアップデータと突合していかなければならない。
 ――フォーマットの数がとにかく多い。それでもプログラムを作れば自動的にコンバージョンできるので時間さえあれば何とかなります。あれから45日たって最も厄介なのは、原発事故に伴う住民の移動です。半径30㎞以内が立ち退きとなって、どこに避難したのか、改めて追跡しなければならなくなりました。その業務にも当社の社員が従事しています。
素朴な疑問は、それだけのことをやって適正な対価が支払われるのだろうか、ということだ。
 ――ご理解いただけそうなお客さまもいますし、保留させてほしい、というお客さまもいます。2011年度については継続して契約がいただけると考えていますけれど、これまでの契約では役場がどこかに転出するとか住民の避難生活が長期化するといったことを想定していませんからね。
 2011年度の売上高見通しは立てようがないのが実情だが、「希望的観測として2〜3割減にとどまってくれれば」と鬼澤氏はいう。東北地域のIT企業に苦難が待ち受けている。

アクセスカウンター