IT記者会Report

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東日本大震災・被災地を行く(2)

 4月25日、筆者が自宅を出たのは朝6時である。千葉記者、中村記者との待ち合せ場所としたJR東浦和駅前まで、カーナビによる所要時間は85分。2時間あれば余裕を持って目的地に着けるはずだった。鎌倉街道・日野公田インターチェンジから横浜横須賀道路に乗る。平日の朝、通勤時間にはまだ間があるので車両の流れはスムーズだ。

 ベイブリッジ、翼橋を越えると、片側3車線の直線が続く。夜になると工場群が異次元空間を醸し出す一帯だ。東扇島付近に差しかかったとき、路面が微妙に波打っていることに気がついた。路肩に〈地震のため……〉の看板が出ている(ハンドルを握っていたため看板の文字は最後まで読めなかった)。
 3月11日、川崎市は震度5強の揺れに襲われた。同時に臨海工業地帯の火力発電所は緊急停止し、工場の操業がストップした。液状化現象はここから30?も離れた藤沢市茅ヶ崎市でも発生していた。コスモ石油千葉工場(市原市)と同じような火災が起こっていたら、首都圏はもっとひどい混乱に陥っていた。
 葛西・浦安付近でも路面の湾曲と段差、ひび割れが認められた。地震の発生直後から10日間、新木場〜葛西ジャンクション〜舞浜インター出口までが通行止めになっていた。首都高三郷線は、ビル4階以上の高架で荒川沿いを走る。阪神・淡路大震災の朝、一番に映し出されたのは横倒しになった阪神高速道だった。大型トラックが宙吊りになっていた映像を思い出す。首都高はよくぞ倒壊しなかったものではある。
 ――現場を見ずして何を語れるか。
震災が発生してから、ずっとそのことを考えていた。20mを超える大津波が2万5000人以上の生命を奪い、100万人を超える人々の日常を根こそぎにした。
 ――そのときITは何をしたか。ITは何ができるか。ITは何をすべきか。
 それを確かめたいと思った。
 今回の実査を郡山市仙台市いわき市に絞ったのは、復旧・復興活動の迷惑になることを懸念したからだ。ITに軸足を置く報道関係者が現地に入るのは時期尚早ではないか、という疑問もあった。その一方、震災直後の対応などを取材するなら、今をおいてほかにない、という思いもあった。また、マスメディアの情報は太平洋沿岸の津波被災地に集中しているが、都市部や山間部はどうだったのか。現場に入って初めて分かることが多々あるに違いない。
 当初は筆者の単独行の予定だった。しかしいざとなると、一抹の不安があった。震度5超の余震、あるいは道路の陥没などで身動きが取れなくなったとき、単独行はいかにも心細い。それに複数の視点でレポートしてこそ、記者会の活動費を投入する意味がある。
 そう考えていたとき、千葉利宏、中村仁美の両記者が同行を申し出てきた。千葉記者は記者会理事であるとともに、不動産ジャーナリスト会議の幹事、中村記者はリクルート契約記者というだけでなく、女性目線のレポートに定評がある。これで4月15・16日に福島県伊達市山形県米沢市のパソコン生産拠点を先行取材した大河原克行記者のレポートと併せ、計4本が揃う。

 中村記者は待ち合せ時間の10分前に到着した。
 ――JR武蔵野線の西国分寺から東浦 和まで、40分ぐらい。乗り換えなしだったので楽でした。
 キャスターが付いたケースの中から水筒とカメラを出す。
 ――水だけは自分で確保しないと。
 なるほど。
 駅から歩いて10分という地元・千葉記者の寝坊という”想定外”はあったにせよ、JR東浦和駅前を出発したのはほぼ予定通りだった。浦和インターで東北縦貫道に入り、羽生サービスエリアで休憩し、めいめい朝食を取る。それぞれの立替分精算とスケジュール確認ののち郡山を目指す。
 東京はすっかり散ってしまったが、宇都宮を過ぎると、桜の花が目に付くようになってきた。那須塩原インター出口手前の上り坂から白河インターにかけての峠越えは、新緑が萌えはじめたばかり。まさに俳句でいう「山笑う」の景色が広がる。
 筆者の自宅を出発したとき、ガソリンは満タンにしておいた。レンタカーと同じように、満タン返しにすれば実査に要したガソリン代が正確に計算できる。
首都高を抜け東北道に入っても、まだ2目盛の余裕があった。しかし現地でのガソリン供給状況が分からない。「十分とは思うんだけど……」と、安達太良サービスエリアで再び満タンに。
 ETC装備車であれば出入りができるスマートインターチェンジが増えていた。取り付け道路の建設で1か所当り平均20億円、名目を変えた公共土木工事という批判はあるが、今回の被災救援活動に有効だったのではないか。ETCもITの成果なので、ITが無力だったわけではない。
 ここを出たあたりから、コーンポストで囲った路肩の崩壊箇所や路面のひび割れが目に付くようになる。車線上の電光掲示板に〈地震走行規制〉〈段差あり注意〉といった文字とともに、路面の畝りが顕著になってきた。
 平日のせいで乗用車はあまり走っていない。ライトバンやワゴンの営業車、運送会社の大型トラック、タンクローリーなどに混じって、〈災害支援〉のシールを貼った車両が目立ち始める。ふと見ると、反対側の上り車線や前方に、カーキ色の幌がけトラックが列をなして走っていた。自衛隊の救援車両だ。いよいよ被災地入り、の緊張がいやがおうにも強まってくる。


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