東日本大震災・被災地を行く(1)

いまだに復旧・復興フェーズに至っておらず、「ITどころではない」のが実情

 4月25・26の両日、IT記者会の佃均、千葉利宏、中村仁美の3名は東日本大震災の被災地に入った。震災発生から1か月半が経過し、都市部は一見すると日常を取り戻しているようだが、そこここに被災の跡が残っている。また大津波に襲われた太平洋沿岸地域は、いまだに復旧・復興フェーズに至っておらず、「ITどころではない」のが実情だ。見たまま・聞いたままをレポートする。


 いささか常道から外れるが、冒頭で今回の実査のまとめ――というか総括――を書く。
 まず会計報告である。会費を摘要した以上、使途を明らかにしておく必要がある。表のように、実査に要した費用は8万1,322円、1人当りでは約2万7,000円だった。
 移動に鉄道+レンタカーという手立てがあったが、この時期、被災地に向かう場合、レンタカー業者が車両の放射能汚染の可能性を忌避することが懸念されたことから、佃所有の乗用車を利用した。
 次に、実査を行ったことが有為だったかについてだが、筆者においては有と無の見解が並存する。
 有為とするのは、ともあれこの足で被災の現場に立ち、この目で被災の状況を見、この耳で被災にあった方々の言葉を聞いたことである。震災の発生から45日を経過していたとはいえ、何ものにも代え難い貴重な経験値であったことを素直に認めなければならない。
一方、無為とするのは被災地のITの状況について、しっかりした取材ができなかったことである。なるほど、一部について実情をヒアリングすることはできたが、当該地域のITベンダ全体の状況を把握するのに十分だったとは言い難い。またユーザーサイドへのアプローチは、ほぼ未達に終わった。
 ただし、次のようなことが言えるかもしれない。45日を経過してもなお、被災地においては、ITを語る段階にないということである。混乱を極めたであろう初期の状況はようやく整理できつつあるものの、「復旧」「復興」は言葉が先行し、緒に着いてすらいない。被災の規模がそれほどに大きいことを物語る。
 事実としてITは被災を防ぐことはできなかったし、国の最高議決機関における呆れるほど低劣な時間の空費を阻止することもできていない。しかしITは、多くの善意を結びつける中枢的な機能を担うことによって、垂直型ないし上意下達型の壁を打破る可能性がある。そうであればこそ、ITは今後、極めて重要な役割を果たすに違いなく、ITにかかわりを持つ人や組織のすべからくは、そのような方向性を指向すべきであろう。
 全体の感想だが、それは「1か0か」に尽きる。マグニチュード9.0の激震を受けた点では都市部も山間部も太平洋沿岸部も変わらない。しかし同じエリアでありながら、津波が決定的な違いを生み出している。それは都市部と沿岸部というマクロ的な違いではない。津波の到達点が「1か0か」を分けた。
 実際、仙台市でもいわき市でも、海岸に向かって下っていく車窓の景色は、平常とほとんど変わらない。ところどころ屋根にブルーシートがかかっていたり、歩道の亀裂や路面の畝りがあることから、地震があったと分かる程度。それを除くと何事もなかったような錯覚すらある。ところがある地点を超えたとき、風景が一変する。家屋が倒壊して基礎しか残っていない隣は全くの無傷。「1か0か」の分かれ目がくっきりしているのだ。
 「1」の被災地は、それなりに失われたものがあったにせよ、また余震への怯えや慄きがあるにせよ、おおむね”日常”が持続されている。朝夕には通勤・通学の混雑があり、販売と消費が行われ、バスとタクシーが走り、信号が点滅し、建設の喧騒がある。
 対して「0」の被災地は何もかもを失っている。人の命も、家も、土地も、車も、財産も、仕事も、生き甲斐も、生活も、友人も、地域のつながりも、何もかもである。物理的には残骸、瓦礫、曠野と表現されるが、2011年3月11日午後2時46分まで、あるいはその10分〜30分後までは、生活の場、資産、資源、歴史、文化、思い出だった。
 実査チームが立ち入った津波被災地は、仙台市若林区の広大な曠野、いわき市平豊間地区の入り江の2か所および、福島第一原発まで38?の地点である。被災面積、死亡・行方不明・避難者数、倒壊家屋数等で岩手県南三陸町陸前高田市などには及ばないかもしれないが、この場合、被災規模を比較することはほとんど意味を持っていない。

続きは⇨ http://d.hatena.ne.jp/itkisyakai/20110511/1511411544

アクセスカウンター