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(続)絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(8)

神谷芳樹のオフィシャル・エッセイ
東洋国家の必死

 次の話題は紡績業。これは当時の世界の覇者英国の産業革命の推進役となり、植民地経営の基盤となっていた産業である。渋沢栄一は訪欧時、世界の繊維産業の中心地フランスのリヨンで紡績業の実情を見学していた。


東京、王子、飛鳥山の渋沢史料館で
 
 日本では、明治十二、十三の両年、綿製品の輸入が盛んだった。西南戦争の影響で政府の通貨が膨張し物価上昇、大変なインフレーションのなか、木綿の値段が暴騰していた。木綿製品、金巾、紡績糸、更紗など種々輸入されていて、外国製品のほうが廉価で品質がよかった。
 明治二年から13年の間の輸入総額の実に65%が綿製品という状態だった。そこで明治十一年、大蔵省の松方正義が紡績機械を輸入、2,000錘規模の工場で全国各地で生産させたが、目立つほどの効果が得られなかった。そこで渋沢栄一が調査したところ、英国では1工場5万、10万錘で、1万錘以下はなく、営利会社とするにはどうしても大規模な工場が必要なことが判明した。
 そこで民間資本による紡績会社設立となるが、その資金確保にすったもんだ、いくつかの幸運が重なり、明治十三年、華族資本も入った巨大企業「大阪紡績会社」の設立にこぎ着ける。津本陽の表現で、今度は「滑稽きわまりない愚行を演じ、苦杯を喫した」「抄紙会社」の轍を踏まないように警戒した。今回はいきなり外人技師を招聘するのではなく、日本人による欧州での技術習得を先行させる。ここに3人の日本人が登場する。西周(にし・あまね)、津田束(つだ・つかね)、そして山辺丈夫(やまのべ・たけお)である。
 西周論語学者、洋学者としても評価されている。長州藩の隣、越前、津和野藩の開明の藩主亀井茲監(これみ)に重用され、維新後東京で塾を開いていた。論語の研究で渋沢栄一と親交があり、渋沢系の企業に多くの門下生が就職していた。津田束も山辺丈夫もその門下生である。渋沢栄一第一国立銀行に勤めていた津田束に紡績会社のことを相談し、俊秀、山辺丈夫の推薦を受ける。山辺丈夫は、亀井茲監の跡継ぎでやはり西周の門下で、若殿自ら英国に留学していた亀井茲明(これあき)に英語の教育係として従っていて、保険業を勉強中だった。これを手を尽くして説得し紡績の勉強に切りかえてもらった。
 山辺丈夫は当初キングス・カレッジに学ぶが理論ばかりで役に立たないと判断、製造現場での技術習得を目指した。自習先確保が大変な苦労だったがようやくランカスターでこちらから払う見習い金つきの実習先を得る。見習い金1,500円は大金で、紡績会社創立費から支払われた。
 このあたり、日本に出入りの外国人は何かの購入や、外人指導者の招請では結構支援してくれたのに、こうした直接的な技術習得の世話には冷たかった気がする。まあ、世界とはそういうものであろう。
 山辺丈夫は帰国後、渋沢栄一とともに大奮闘し、明治十六年7月大阪で工場を落成させる。イギリスから精紡機15台を購入、総数15,000錘だった。工場立地から、エネルギーの確保など苦心惨憺、輸入した大型ボイラーのクレーンによる荷揚げ一つ大問題だった。なんでも大阪城築城時の遺風が再現されたとのことである。 
据え付け担当に英人技師ニールドを招聘。ニールドは欧州各国で経験豊富で熟練の腕前を示し、誠意があり、その後も日本に多大な貢献をした。
 その後、この紡績事業は日本で独自に混紡の技術を磨き、また英国ではもう行われなくなっていた夜業を行い、さらに夜業によって機械の消耗が激しくなると、最新式にどんどん更改し、やがて強い国際競争力を持つに至った。夜業のために危険な石油ランプでなく,エジソンが発明したばかりのエレキトルライトを大量導入するなど旺盛な技術革新だった。
 工場の見学希望が殺到し、個別の案内が繁忙なため、3日間公開日を設定したところ近隣から5万人が訪れたということである。熱い日本の感動的な姿だ。
 この項、いつもは渋沢栄一の事業の推移を淡々と記す中でその苦労や感動を語ることの多い津本陽が珍しく、直接的にその評価と感慨を伝えている。
津本陽は評価する、紡績業における創業の苦労は製紙業のそれに勝るとも劣らなかった、と。そもそも西欧におけるこれらの産業の発展も彼らの大変な辛苦、努力の末に成し遂げられたもので、それが産業革命を経て、植民地経営へとつながっていったものだ。
 他の東洋諸国のように植民地化を避けそれに伍して行くための日本の努力は並大抵ではなかった。まさに必死であった。各産業分野で、「西洋人にできることが日本人にできないことがあろうか」、という気概と、「失敗すれば腹を切る」、というほどの決意でのぞんだ、ということである。大阪紡績の事業は大発展し、後にやはり渋沢栄一が目をかけた三重紡績と合併して東洋紡績、今日の東洋紡になった。命名者は渋沢栄一、東洋一を目指す心意気だった。山辺丈夫は社長に就任し、技術者経営者の先駆となった。またその展開は大阪経済発展の基礎になった。
 このあとの話題は再び金融、今度は金融逼迫、諸銀行の破綻などなどを経て、日本銀行の創立となり、他の国立銀行は普通銀行に転換した。明治十九年、不景気による金利低下を契機に、多くの新規事業が擡頭した。このなかで渋沢栄一の活動は狂気迫る執念で近代日本に必要な様々な産業に展開される。高峰譲吉博士との大日本肥料会社、平野富二との石川島造船所、浅野総一郎との東京瓦斯会社、および浅野セメント、そして大日本麦酒へ、といった具合である。
 それぞれの創業は別々な形で困難を極めた。
 抄紙会社のときは製品製造にたどり着くまでに困難があったが、肥料会社やセメント会社では市場での製品需要が少なく、当初の事業継続に困窮を極めた。また肥料会社ではパートナーの高峰譲吉博士の渡米、そして工場全焼というような災厄もあった。渋沢栄一は第一人者として先頭に立って新規事業を産業界に受け入れた。失敗の累積だったが、屈せず、日本国に必要な事業ではどれほど損失を重ねても見限ることがなかった。協力者皆無でも努力を続けた。その心の深遠は他の事業家、いわゆるビジネス・パーソンとは大いに異なるように見えた。