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ソフトウェアとコトバ(10) 加上のパラドクス

 富永仲基が言説の歴史的展開における「加上」の現象に関して発見したひとつの逆説的な事実がある.それは,新しい言説をとなえるとき,ひとは,自らの言説の正しさを証明するために,自分が打倒しようとしている言説よりさらに時代を遡った古い言説を引用することが多いということである.

 伊藤仁斎は,朱子学に対抗すべく古学を興し,孔子が説いた「道」が真の道だと考え,それ以降の儒家の言はすべて邪説として退けた.荻生徂徠は,それに加上して,「道は先王の道なり」というスローガンを掲げ,孔子はただ古代の聖王の言をパラフレーズしただけだと主張した.そもそもの本家である中国の諸子百家時代の状況はどうだったかといえば,仲基によれば次の通りである:
 ーー孔子が堯・舜を敬い周の文王・武王の事績を紹介し王道について説き起こしたのは,その時代に斉の桓公や晉の文公などの覇者が高く評価されているのに対してその上を行こうとしたからである.墨子も同じように堯・舜を尊んだのだが,周より前に時代を遡って夏の道を説いた.楊朱はさらに時代を遡って帝道について語り,その論拠として黄帝の名を持ち出した.許行が神農について説き,荘子列子などが無懐・葛天の世について説いているのは,いずれもその上の上に出ようとしたものである.孔子以後においても,「儒は別れて八つになる」という表現が示すように,それぞれがみな孔子にかこつけてその上を出ようとした状況は変わらない.世子が「性に善あり不善あり」ととけば,告子は「性は善なく不善なし」と主張した.孟子はその上を行こうとして性善説を唱え,筍子はその上を行くために性悪説を主張した.曽子が「孝」を唱えたのも,さまざまな道のうちの一つに的を絞って他を打ち負かそうとしたのであった.
 いささか乱暴な物言いだが,きわめてわかりやすい中国古代思想史概説だといえよう.「人間はコトバを用いてさまざまな世界を創り出すが,しかし,無からではなく,過去にだれかが創った古いバージョンを手直しして新しいバージョンを創るのだ」とルソン・グッドマンが指摘しているように(『世界制作の方法』,ちくま学芸文庫),この世界に関するあらゆる新しい言説は,すでに存在する古い言説のバージョンアップに過ぎないのである.

 時間をさらに遡って古代インドにおける宗教的言説の流れも,まったく同じような状況であった.まずリグヴェーダが先行し,さまざまな「天」を加上するというスタイルで,いわゆる「外道」の思想が複数(96種?)存在していた.それらに対抗すべく唱えられたのが釈迦の仏教だった.釈迦自身は何も書き残さなかったので,弟子たちがその言説を書き留めたかたちで小乗仏教の経典がいくつか作られ,さらに長い時間が経過したあとで大乗の経典が,やはり加上の原理を利用して次々に登場したのである.仲基の『出定後語』は,徹底的な文献解釈にもとづいて,そのあたりの経緯を詳細に分析してくれている.
 仏教の経典は,いずれも「如是我聞」すなわち「このようにわたしは聞いた」というフレーズで始まっている.ここで「わたし」とはその経典の筆者を指す.しかし,「聞いた」というのは,釈迦のことばを直接耳にしたということではない.「かつてお釈迦様がそう語ったとだれかが述べているのを伝え聞いた」という意味なのである.実に巧みな加上のレトリックであって,そういう但し書きがなければ,読者は,そこに書かれているのが釈迦自身の言説だと誤解してしまう.何しろ何十年か何百年か前の話なのだから,だれにも事実確認などできはしない.

 仏典に書かれている言説が釈迦自身のものではなく,後世の(いわば)捏造であるという仲基の「大乗非仏説」が、当時の日本の仏教界から猛烈な反発を食らったというのは当然の結果だったといえよう.唯一かれを評価したのは、仏教批判の国学者本居宣長だけだったというのもうなずける.大著『古事記伝』を表した宣長は、文献学者としてはきわめてすぐれた人物だったが,また強烈な排外主義者(一種のレイシスト)でもあった.文化問題に関する有名な論争の相手・上田秋成から「敷島の大和心などと,よくいうよ」と皮肉られていたりする.
 ここでは,そうした宗教史や文化論に深入りするつもりはない.仲基の筆法を真似て,ソフトウェア工学の短い歴史における加上の事例を,次回以降でたどってみたいと考えている.さしあたり,最初に取り上げるべき話題は,ソフトウェア工学勃興期に登場したさまざまな「構造化」技法の時代的変遷とその思想的背景についてということになるだろう.さて,うまくいくかどうか?