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絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(5)

井底の痴蛙(せいていのちあ)、欧州に立つ
 第15代将軍徳川慶喜が誕生し、まだ新撰組が京都の街を疾駆しているとき、渋沢栄一はフランス国賓である日本政府代表団の一員としてパリ万国博覧会の会場に立つことになった。津本陽が描く渋沢栄一の心のそこまでの描写は感動ものである。


「若き日の栄一」(旧渋沢邸「中の家」前庭で:深谷市、血洗島)

 渋沢栄一が京都で覇気のない幕臣達の中で新撰組を従えてささやかな捕り物を演じ、遠くない幕府崩壊を予感しながらうつうつとしているとき、突然、津本陽の表現では「体が宙に浮いたような気持ち」になる命令が下った。慶応二年(1866)の11月、翌年パリで万国博覧会が開催されることになり、在日フランス公使から幕府に、各国の帝王が集まるので日本からも将軍の親戚を派遣するのが良いという建言があり、紱川慶喜の弟、紱川昭武が派遣されることになった。そこで渋沢栄一が少数の供の一人として選ばれた。紱川昭武は博覧会後もさらに5年から7年間留学する計画だった。
 渋沢栄一はこのとき前途が開けたとは思わなかったそうだ。むしろ派遣された後に幕府崩壊となり、帰国も叶わなくなる覚悟を決めたとある。打算のない無私の心で働く当事者にはそんなものかも知れない。が、歴史はこの欧州生活が、その後渋沢栄一個人にとってということを遙かに超えて、近代日本の決定的な展開に繋がることになる。
 欧州への旅は横浜港から始まる。慶応三年正月、フランス商船でまずは上海へ。乗船と同時に西欧型の生活が始まる。渋沢栄一はにわか洋装だったようだ。はやこの上海で渋沢栄一はその後の体験を凝縮したような認識を得る。上海の河岸に投錨し、フランス公使の馬車で市内を案内される。浮波止場の軌道、瓦斯燈の連なり、電線の架設、平坦な道路、街路樹、地中のガス管設備などに驚き呆れるばかりだったとある。そしてその驚きは城門をくぐった城内で一変する。一行はそこで中国の現実の姿に目を見張る。そこは不潔で貧しく、臭気紛々の世界だった。西洋人が中国人を使う有様は牛馬と変らなかった。中国人はそうされるのが当然のように思っているようであったとのことである。一行が市中を歩くと中国人が蟻のように群がり、喜捨を乞い、英仏兵が追い払うと潮の引くように逃げた。
 そこから香港へ向い、フランス郵船の巨船に乗り換え、サイゴンシンガポール、セイロンと寄港して行く。サイゴンには1万人のフランス軍が駐留していた。シンガポールは街並みを含めてイギリスの一大根拠地だった。一行は、日本が中国や他の東洋諸国のように欧米の武力の前に屈服することなく存在しているのが不思議に思えたとのことだ。
 渋沢栄一は、蒸気船の舷側から銀貨を投げやると、大勢の現地人の子供が先を争って海中に潜り拾ってくる様を見て不安がこみ上げて来たという。津本陽は、かつての尊王攘夷の志士、そして幕府中枢で働いていた渋沢栄一の、「これほど西欧諸国が世界の各地に手をひろげ、力を養っているとは知らなかった、井底の痴蛙(せいていのちあ)とはよくいったものだ、白人には気が許せぬ」、そして、「あの連中に打ち負かされないためには、その文明をわがものとしなくてはならない」、という率直な述懐を伝えている。

 もうパリに辿り着くずっと手前で、その後の行動の十分な動機付けが行われていたことになる。「一日も早くその技術をわがものとしなければならぬのだ。俺は日本の人々が知らないフランス国の文明を見聞して帰り、これを国内に知らせねばならぬ。そうすることが日本を破滅の淵から救いだす働きの一助になるのだ」、ごく自然な感情である。
そのあとスエズに向い上陸。スエズ運河の工事を見学、汽車で陸路カイロへ向かう。トルコのアレキサンドリアを通る。この間砂漠やナイル川の肥沃な土地を目の当たりにする。かつて文明が栄え、ナポレオンに占領され、トルコ領になりようやく独立国になったエジプトの歴史を認識する。そして汽船でフランスのマルセイユに入港、ここからすぐに濃密な公式の欧州見学、視察の旅が始まる。
 たとえば、ツーロンで軍艦視察、発砲訓練見学、試射体験、製鉄所、溶鉱炉反射炉などを見学、潜水術見学。マルセイユに戻って、観閲式列席、歩兵、騎兵、砲兵調練見学。マルセイユから汽車でリヨンへ、紡績工場見学、といった具合である。軍事調練にも、職工が7〜8千人もいる紡績工場にも目を丸くしたようである。そして3月、一行は遂にパリに立つ。
 あんなに海外事情を読み、一度は攘夷に命を捧げる行動に走り、そして一転して開国した政権中枢で働きながら、実際に東アジア臨海部を巡ると「井の中の蛙」であったことが認識させられた。日本が西欧の力に屈服していないのが不思議、という感覚を持ったのは率直な姿勢だ。国粋的な基盤をもつと、何か神がかり的な理由をつけて日本の独立や優位性を主張する誘惑があるが、そんな気すら起きない圧倒的な力の差が見えたに違いない。
 筆者も上海には行ったことがある。植民地時代の建築群の残る黄浦江岸、あるいは風情ある並木の街路の旧フランス租界あたり、そして大発展している現代中国の市街から観光スポットの豫園へ向かうと、街並みの極端な変化にちょっとその面影を感じることが出来る。ようするに狭い城内に中国人が押し込まれていて、その外側の快適街路は全部租界だったということだ。現在大賑わいの南京大路あたりも日本を中心とした後発勢力の租界だった。美しい人民公園はもとはイギリス租界の競馬場だった。
 ちょっと時代が下るが、東京には隅田川下流河岸に外人居留地ができた。現在の聖路加病院あたりだが、これは上海とはまったく逆だ。東京では外国人が狭い領域に押し込まれていた。この差はどこから来たのだろう。
 この渋沢栄一のパリへの往路を俯瞰してふと感じるのは、渋沢栄一の現実を見つめる謙虚さと、同時にその奥底にある日本人としての自信である。現実はしっかりと見つめ、きちんと認識する、が、しかし容易には打ち負かされないぞ、そしていずれ勝つこともできるだろう、という潜在的な自信である。圧倒的な現実を認めつつもまだ負けていないわけだ。これだけの彼此の差を前に自虐に陥らない内面があったのは驚くほかない。その欧州生活の展開のなかでこの点の推移について注目していきたい気持ちが湧いてくる。