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絶句、青淵、あまりにも偉大な 津本陽「小説 渋沢栄一」を読んで(4)

歴史舞台への登場

 渋沢栄一は尊攘の志士として社会的な騒動を企てたが、おそらく日本の歴史に名を残すというようなことはずっと考えていなかっただろう。しかしながらその名は今となっては一橋慶喜のもとで京都で活動する中で、はやくもしっかりと歴史の歯車の中に刻まれていくことになる。


旧渋沢邸「中の家(なかんち)」正門(埼玉県深谷市、血洗島)
 
 一橋慶喜渋沢栄一が仕官した翌月、禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮、ようするに京都守備と大阪湾防衛の二つの大任を命ぜられた。後者はさしたる海軍力のない幕府にとって難題だ。ここへ薩摩の島津久光から摂海防備についての建議があり、その一環で薩摩の折田要蔵という人物が摂海の砲台築造掛になった。薩英戦争で活躍した経験豊富な薩摩のエリートである。
 渋沢栄一はその本能から、幕府にとってこの人物は要警戒であると察知し、幕府側の内命を受けながら上手に折田の内弟子となり、その台場築造の手伝いをするようになる。この仕事で台場構築や土木工事の実務を学び、もちろん折田の人物像や薩摩藩の実情を把握して幕府方へ報告した。折田は大言壮語するが大した人物ではないという結論だった。
 ここで大河ドラマの一シーンにぴったりのエピソードが登場する。
 この仕事で渋沢栄一は時の軍賦役、西郷隆盛と知り合い、誘われて豚鍋をつつきながら晩飯を一緒にする場面がある。食事中西郷隆盛一橋慶喜の腰の弱さを酷評する。この会話を渋沢栄一慶喜に報告すると、「いかにも、もっとも」とうなずいた。なんとも、津本陽の書籍のタイトルは「小説 渋沢栄一」だ。登場人物は実名でも挿入されたエピソードはフィクションかも知れない。以前読んだ吉川英治の「三国史」を想起する。そこで冒頭延々と続く感動のシーンは、あとから他の三国史をいくつか読んで知ったが、吉川英治の全くの創作だった。こうしたとき小説家の想像力は自由自在だ。
 もう一つ京都でTVドラマにぴったりのシーンがある。京都へ来て3年目、渋沢栄一一橋慶喜が将軍になる少し前に紱川家家臣、陸軍奉行支配調査役になった。そしてまもなく一つの事件が起きる。京都町奉行から陸軍奉行に、謀反をはかった嫌疑のある人物、大沢源次郎を召し捕るよう依頼があった。実務的には新撰組に依頼することになったが、陸軍奉行からこれを統括する立場で人を出す必要がある。尻込みする幕吏ばかりの中で渋沢栄一は快諾した。結果として渋沢栄一新撰組局長近藤勇、副長土方才蔵ほか隊士を従えて捕り物に向かい、あっさり任務を果たす。
事前の打ち合わせで、口上をきるために新撰組を抑えて先頭を行こうとする渋沢栄一に、土方才蔵が
 「相手が斬りかかってくればどうされるつもりですか」
 と聞いたとき、
 「いや、さように軽く見られるほどの腕ではありません」
と答えたとのことである。鍛えた撃剣の腕は本物だった。

 西郷隆盛と豚鍋をつつき、一橋慶喜が酷評されたこのときの会話を本人に伝えるはなし、あの近藤勇、土方才蔵を従えて捕り物を展開する姿、当時の当人には何の自覚もないだろうが、今ではこれらの場面が日本の歴史の一シーンとして、文字通り絵になる重みを持っている。
 津本陽はこのような状況の中で、幕府は1、2年のうちに潰れるだろう、自分は亡国の臣になるに違いない、という渋沢栄一のうつうつとした見通しを描いている。大物同士のコミュニケーションを適切な人間を介してさりげなく行う手法は現代でも通じる。捕り物の実務を新撰組に依頼し、みずからは修羅場に赴こうとしない幕吏群の姿は、なんだか現代の駄目企業みたいで面白い。
 渋沢栄一一橋慶喜に仕えて、この小さな捕り物事件に至るまで、いくつもの歴史的事件が展開された。
 大阪での薩摩藩、折田要蔵らの探索業務のあと、渋沢栄一は上司平岡の依頼で関東に赴き、一橋家の家来を50人ほど増やすリクルートに貢献する。こうした中、この平岡が街中血走っていた京都で水戸藩士に斬殺される事件が起きている。そして蛤御門の変、御所に乱入しようとした長州勢と警護の薩摩、会津勢が戦い長州惨敗、京は大火に見舞われた。
 渋沢栄一は関東から焼け野原の京都に戻ることになった。
 次いで、水戸藩士攘夷派が筑波山から旗揚げした天狗党の乱。加賀藩中山道でこれを鎮圧。参加者776人のうち352人斬罪という凄まじい処分だった。
 こうした騒然たる状況の中で一橋慶喜の地位は上がり、渋沢栄一一橋慶喜に兵備の整備を進言、認められて歩兵取立御用掛を命ぜられる。その実務にはさすがの渋沢栄一も苦労するが、様々な工夫と努力により450人余を確保し、京都で一橋家に洋風の歩兵部隊を実現した。
 このころ一橋家は出費がかさみ用度は苦しかったが、用人たちは経済の才にからっきし疎かった。渋沢栄一は持ち前の才で一橋家の年貢米の換金、木綿の販売、硝石の製造を工夫し、利を増やし、家の用務一切を任されるようになった。藍の商人として鍛えた才能は遺憾無く発揮され、慶応元年八月に勘定組頭という役職を命ぜられた。25石7人扶持、滞京御手当月額21両ということである。これは後世の大蔵次官だそうだ。つまり、摂州、播州泉州あわせて10万石と幕府直轄で京都と、大阪湾の防備を任された一橋家の軍務と財務を実質的に担う存在となった。
 多くの現代人は渋沢栄一のこうしたその全生涯に比べればほんの小さなエピソードの中にも現代に通じる人材活用、組織論、そして企業革新の先駆を見ることができるだろう。どの仕事も物理的に命がけという現代にはない迫力付きだが。
 その後政情は激変する。蛤御門の変のあと長州征伐の勅旨、長州藩は一戦も交えることなく服罪。その後長州藩は過激派が盛り返し、第二次長州征伐。古色蒼然、かつ戦意無き幕軍が各地で大敗。一橋慶喜が紱川家を相続し将軍に、という経緯を辿る。渋沢栄一慶喜の将軍職就任に反対したがその声は届かなかった。第二次長州征伐に一橋家は1,367人で出陣、渋沢栄一もその一人として命を捧げる覚悟だったが、戦闘無く和議となった。