IT記者会Report

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東日本大震災被災地4年目の夏〜汐風と砂塵の中で〜(1)

 「東日本大震災被災地4年目の夏」ツアー(8月1〜3日、IT記者会主催)が無事終了しました。全コース参加者は6人、平均年齢は70歳でした。盛岡を起点に、宮古〜大槌〜大船渡市〜陸前高田気仙沼〜南三陸〜女川〜石巻、そして仙台まで、走行距離は490km。折から東北地方は夏祭りの季節で、ねじり鉢巻に法被という姿の方がチラホラ見えました。そういう中での視察ツアーは、何となく納まりが悪いような。見たまま聞いたままをレポートしていきます。

進む嵩上げ工事/脱仮設の見通しは不鮮明

 今回のツアーは盛岡から宮古に出て仙台まで南下するコースで、陸前高田からは1年間の進捗状況を確認することがメインです。起点に宮古市を選んだのは、岩手県立大学の村山研究室が開発した無人販売システムの社会実装実験が、同市の赤前仮設住宅で行われているためでした。
 無人販売システムについては後述するとして、赤前仮設住宅でうかがった話からは、行政と被災住民との間に溝があることが推察されました。この炎天下、あるいは厳しい寒さのなかで、仮設住宅にいつまで住み続けなければならないのか。
 ——あと5年はかかるんでしょうな。
 淡々と話す声が痛烈に響きました。
 学校の校庭や公園、運動場、あるいは山間部のちょっとした空き地。そこに仮設住宅が建っていました。“脱仮設”の見通しはいまだ不透明なようです。
 一方、津波被災地の防潮堤と嵩上げ工事は、着実に進行しています。また、今回の視察で気がついたのは、「復興道路」の文字でした。国土交通省のホームページによると、仙台—登米間が開通している三陸縦貫自動車道を八戸まで延伸し、併せて宮古—盛岡の枝線を、という計画のようです。民主党政権で凍結された自動車専用道路の建設が、「復興」を名目に復活していました。
 気仙沼では重機が忙しく動き、南三陸町や女川町は嵩上げされた台形の丘に国道が付け替えられていましたし、陸前高田には遠くの山で掘り出した土を運ぶベルトコンベアの“プラント”が稼動していました。50㌧ダンプの投入と併せ、間違いなく工事に加速がついています。工事作業に従事する人たちで宿泊施設や飲食店は満杯、という状況が続きそうです。
 ただ、地元の人からは、
 ——防潮堤や嵩上げが8㍍だろうが12㍍だろうが、震災の津波は場所によって20㍍、30㍍もあった。避難路が最優先じゃないか。
 という声が聞こえてきます。
 ——東京オリンピックまでだよ。
 が、復興景気のことでなく、「それまでに復興にめどをつけたい」の意味だと理解したいのですが。

県内2番目の水門も大津波には無力

 宮古市の北に向かったところに、風光明媚な浄土ヶ浜、大堤防の田老、さらに三陸鉄道北リアス線で北山崎の展望台がある。そうか、そのまま行けば〝じぇじぇじぇ〟の久慈なんだ。むろんそっちに行っても津波の傷跡は累々に違いない。
だが今回の目的地は図の白い□の部分だ。JR山田線の駅でいうと「つがるいし」。厳密にいうと、宮古湾に向かって津軽石川の左側を指し、右側が「赤前」地区となっている。そこに「津軽石川水門」がある。
岩手県内で2番目に大きく、最大8.5㍍の津波をブロックできるということだった。しかし東日本大震災津波は、水門と堤防を軽々と越えて、津軽石・赤前地区のすべてを押し流し、死亡・行方不明49人、全半壊730戸という大きな災害を生んだ。
 視察団の車が宮古市街に入ったのは午後3時半過ぎだった。夕方の混雑はまだ始まっていない。4時までには着きたい、という焦りがあった。仮設住宅の集会場が閉まるのは5時、遅く着けば、その分だけ住宅の人たちの話を聞く時間が短くなる。
 それを察知したのか、野村氏が「一つ手前の橋を渡りましょう」という。「磯鶏1丁目という交差点を右折したほうが早いと思います」――さすが地元の人ならではだ。
 国道45号線を南下してしばらく進み、丘を越えると砂浜が見えてきた。小さいけれど、きれいな弓の状(かたち)を作っている。あとで知ったのは、そこは夏場は海水浴場になる「藤の川浜」というのだった。翌朝、実際に歩くとその岩場にも津波の痕跡が認められた。
 「もうちょっと行くと、川の向こうに大きな赤い屋根が見えてきます。そこが仮設住宅
 村山教授の声が聞こえてすぐ、左手前方に大きな水門が現れてきた。ややあって説明の通り、高台の中腹に赤茶色の大きな屋根が見えてきた。
 T字路を左折して橋を渡る。右の車窓に夏草が茂っている。その中に、明らかに人家の門やコンクリートの基礎が見えた。津波の痕だ。左側を見ると、野球のスコアボードが大破したまま残っていた。河川敷にグラウンドがあったのだ。3年半までここにあった〈暮らし〉を思うと切ないものがある。
 「あ、ここ」
 の声で、車は細いくねくね道に入って行く。耕運機や軽トラックが似合いそうな里山のなかほどに、赤前小学校があった。先ほど見えた赤い屋根は赤前小学校の校舎で、その校庭に仮設住宅(赤前仮設住宅)が建てられた。津軽石・赤前地区の約80世帯・230人が暮らしているという。

【捕追】私個人の旅としては、1日目(往路)は仙台を出たところで豪雨による停電で前を行く列車が立ち往生(操車場引き込み線に入る回送列車が動かない)とかで、30分の遅れ、3日目(復路)の深夜は東海道線が人身事故で運転見合わせと、最初と最後にトラブルに見舞われました(日ごろの行い?)。それと3日夜の仙台では、調子に乗って喋りすぎましたね。出なかった声が出るようになったものだから、ここぞとばかり話したかったんでしょう。皆さんにはご迷惑をおかけしました。反省することシキリです。
 写真と資料の整理をしながら、順を追ってレポートしていきます。