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ソフトウェアとコトバ(4)

 言語学者エウジェニオ・コセリウは『共時態・通時態・歴史』の冒頭で,「言語は絶え間なく変化する.変化せずしては機能しえない」というシャルル・バリーの発言を引用しつつ、次のように述べている:
 言語変化の問題は明らかに根本的な論理上の困難さを内包している.実際、それを因果律とらえようとして「なぜ言語は変化するのか?」といったかたちで問題提起を行うと,すでにさまざまな事実によって否定されているにもかかわらず,言語は本来的に静止しているものだという誤った信念を露呈することになってしまう.それは言語の本性それ自身に反するであろう.
 コトバの本質はそれが常に変化することだというのが,コセリウの主張である.これまでの言語学は,コトバをあたかもひとつのモノであるかのように扱ってきた.そうではなく,人間が,自らが属するコミュニティのなかで何らかの意思を伝達しようとして行う活動として,コトバというものをとらえようという立場に立った発言である.
 ソフトウェア工学の分野に置き換えれば,コセリウが主張しているのは,プロダクト指向ではなく,プロセス指向のパラダイムだと考えられる.活動すなわちプロセスとしてのコトバは,当然のことながら時間の要素を含んでおり,絶え間のない変化を基本的属性として備えている.

 M.M.レーマンは,その『ソフトウェア進化論』のなかで,シャルル・バリーと同様に「ソフトウェアは変化せずには機能しえない」と述べている.ソフトウェアは与えられた仕様に基づいて開発されれば,それですべてが終わりになるような代物ではない.開発が完了したあと,ユーザによって利用され,その過程において発生するさまざまな環境変化に対応して変化(進化)を続ける。そうでなければ機能しえない.ソフトウェア進化のプロセスは,レーマンが指摘したように,「多重ループ,多重レベル,そして複数のエージェントを含んだ複雑なフィードバック・システム」なのである.
 ソシュールが提案した重要な概念であるラングとパロールとの間に存在するニ律背反をどうするか,それはまた通時態と共時態との間にも存在する難題でもあるのだが,これらの問題は,言語それ自身が抱えているものではなく,コトバを扱おうとする言語学の方法論によってもたらされたものだと,コセリウは指摘する.
 ソシュールは,コトバを恣意的な発話(パロール)とそれを支配するさまざまな規則や規範(ラング)とに二分し,言語学の研究対象をラングに限定した,ラングは,さらにコトバが生まれ育ってきた歴史的・社会的背景を含む「通時態」と、ある特定の時点におけるその様相をあらわす「共時態」とに区分される.ソシュールは,通時態の研究は事実上不可能であるとして,科学としての言語学の対象を共時態の研究に絞ったのであった.共時態とは,いわば、時々刻々変化する通時態の姿をある時点でスクリーンに投影したイメージのようなものだといえよう.
 しかし,共時態は本質的に通時態のさまざまな要素をその内部に含んでいて,それらを斬り捨てて考えることはできない.大森荘蔵が名著『時は流れず』(青土社)で指摘したように,点時刻のつながりとしての時間軸を前提として考える限り,「飛んでいる矢は飛ばない」というツェノンの有名なパラドクスから逃れることは不可能なのである.

ソフトウェア工学の分野における古くて新しい話題のひとつに要求仕様めぐる諸問題がある.現実世界のモデルであるソフトウェアの仕様は,もともと無限なパラメータを含んでいるが,それらすべてを扱うわけにはいかない。そこで、要求仕様を分析し作成するさいには,その時点において妥当だと考えられるなんらかの仮説にもとづいて、多くのパラメータを斬り捨てて,ソフトウェアの共時態イメージを構築することが行われる.
 しかし,開発が完了し利用が始まるとともに,ソフトウェアを取り巻く環境条件が次第に変化してゆく.いくつかのパラメータの値が変り,またかつては無関係として切り捨てられたパラメータが重要な意味を持って復活してきたりする.そうした環境変化にうまく適応しなければソフトウェアは機能しえない.
 これまでのソフトウェア工学は,ソフトウェアの共時態イメージを重要視し,ひとまず要求仕様の安定性を目指した上で,それがなぜ変化するのか,また,いつどのように変化するのかを分析してその対策を考えようとしてきた.しかし,ICSE2000 での発表論文『要求工学のロードマップ』のなかで,B.ヌセイベイとS.イースターブルックが指摘しているように,「矛盾のない完璧な要求仕様の作成を目指すことはナンセンスであり,仕様のモデル化や分析はそのソフトウェアを利用する組織や環境条件と独立に行うことはできない」のである.
 すなわち,共時態としての静止したソフトウェアを考えるのではなく,ダイナミックな通時態としてのイメージにもとづく新しい方法論が必要とされている.その意味で,ソシュール言語学の限界を乗り越えようとしているコセリウのアプローチは、われわれにとって多くの示唆を含んでいる.