IT記者会Report

オリジナルな記事や送られてきたニュースリリース、セミナーのプレゼン資料など

表現の背後にあるもの

 ふと立ち寄った書店の棚に「言語学の教室」(中公新書)という小冊子を見つけた.この本は,西村義樹(言語学),野矢茂樹(哲学)のおふたりの対談形式で認知言語学とは何かをわかりやすく解き明かした好著だと思う.
 冒頭に掲げられているのは間接受身表現の例題.「昨日,雨に降られました」というのはごくふつうの表現だが,日本語を習い始めたばかりの外国人が,「昨日,財布に落ちられました」といったりするのはおかしい.どうして?
 さらに読み進んで行くと,カテゴリやプロトタイプなど,ソフトウェア屋さんたちが日常何気なく使っているコトバの周辺に散らばっている問題が次々に登場してくる.以前,文革の騒ぎが終わって間もないころ,四川省成都を訪問して「国営坦々麺商店」で食事をしたときの文化的衝撃を思い出す.
 それまで日本で食べていた汁のある坦々麺が,本家のそれとはまったく別物であるということを知らされた.日本の中華料理店では,本来の坦々麺をわざわざ「汁なし」という形容詞をつけて表示している.認知言語学のカテゴリ論ではそうした問題を扱って,どれがプロトタイプでどれがステレオタイプかなどといった議論がなされているらしいが,ソフトウェアの世界でも,「構造化」,「オブジェクト指向」,あるいは「アジャイル」など,さまざまな開発技法のカテゴリについて,ホンモノとマガイモノとが混同される現象がしばしば見受けられる.

 巻末の参考文献リストを見ると、認知言語学という学問が誕生したきっかけは,1987年にジョージ・レイコフが表した “Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal about the Mind” (The University of Chicago Press) なのだそうである(日本語訳は『認知意味論』紀伊国屋書店).
 原書が出版されたころ,わたしは ICSE その他の国際会議に巻き込まれていて,何度もアメリカ往復を繰り返していた.そんなある日,サンフランシスコの本屋さん(いまはなくなってしまったマーケット通りのStacey’s Bookstore)の店先で,平積みされていた奇妙なタイトルの分厚いペーパーバックを見つけたのだった.「え? それなら男や水は安全なの?」と素朴な疑問を胸にホテルの部屋に戻って読み始めたのだが,すっかり魅了され,帰国の飛行機の座席でも続けて読みふけることになった.

 この本で教えられたもっとも衝撃的なことがらは,第15章で紹介されている分析哲学者ヒラリー・パトナムの意味論に関する定理だった:
 パトナムは,モデル理論を用いて数学的に定義された客観主義の意味論は内的に矛盾していることを証明した.すなわち,次の2つの主張は相互に矛盾している:
 ―意味論は記号と世界の中のモノとの結びつきを記述する.
 ―意味論は意味を記述する.

 客観主義の意味論が自明の真実であると考えてきたことが相互に矛盾しているというのは驚くべき事実である.簡単にいえば,記号と世界との間の関係は意味の記述にはならないのである.

 記号(コトバ)とモノとを結びつけることによって意味が生じるというのが、素朴な客観主義の意味論であり,モデル理論はそうした意味論の自然な数学化である.パトナムの定理が示唆しているのは,そのような数学化は成り立たないということなのであった.モデル理論はモデル理論にすぎず,意味の理論にはなりえないのである.パトナムは,ある文を構成する部分(単語)の意味を変えても文の意味(真偽)が変らないという事実を提示してみせた.その証明はなかなか手が込んでいて面白い.
 ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインは、その『論理哲学論考』の考察を:
 ―世界は成立していることがらの総体である
 という単純な表明で始めている.しかし,周囲を見回すと,世界を単純にモノの集まりであるかのように誤解して,客観主義の意味論を頼りに世界の意味を解釈しようと考えている素朴なオブジェクト指向論者が数多く見かけられる.さて,どうしたものだろうか.